世界中から熱苦しく・・・「ふじもん世界放学ブログ」

元「変な学校先生」私ふじもんが、ただ今世界を駆け巡っています!世界の今と僕の魂をお届けしますので、ぜひお読み下さ~い!

【ふじもん世界放浪「放学記」第4章中東編 『正義論』vol.2】

2013-11-30 21:22:35 | 日記
2013年11月30日。


《中東という地域は本当に紛争が絶えない。イランやイラクをはじめ、現在ではシリア、そしてイスラエルとパレスチナの問題など、終わりのない対立と紛争が続いている。そして僕は考える。「正義」の在り方を・・・。》


パレスチナ難民キャンプの学校を訪れたとき、壁に飾られた地図にはイスラエルという文字はなく、「パレスタイン」と書かれていた。


イスラエルを案内するツアーガイドの説明を聞いていたら、「ユダヤ人にとって、この地に自らの国を作ることは当然の摂理なんです。」と話していた。



共に「正義」なのだ。


自分たちが長らく住んでいた土地を追い出されるパレスチナ人からすれば、イスラエルの建国に抗するのもまた「正義」。

聖書によって約束された土地に建国をするユダヤ人からすれば、パレスチナ人を追い出すこともまた「正義」。



共に「正義」なのだ。


でも、共に「正義」だから故に、お互いに退くことができない。

お互いに「正義」を貫く。それ故に、戦いに繋がる。


ヨルダンで出会った日本人に、手塚治虫氏『アドルフに告ぐ』という漫画をいただいた。

夢中で読んだ。

ナチスドイツによって迫害を受けたユダヤ人が、今度はイスラエルの建国に反対するパレスチナ人を迫害、虐殺をする。

パレスチナ人はそれに抗し、ユダヤ人と戦う。



共に「正義」なのだ。


「正義」って何やねん。

正義正義って言うけど、それを貫いた結果が戦争になるのなら、そんな正義なんていらないんじゃないか。

別にユダヤ人やパレスチナ人を批判しているのではない。でも世界には、そんな「貫いた正義」故の戦いが蔓延っている気がする。


信念は持つべきだと思う。自分なりの正義を構築することも大切だと思う。

でも、それが強すぎるが故に対立につながるのなら、「正義って何やねん」って思う。



パレスチナ難民キャンプの学校の先生は言っていた。「この世にイスラエルなんて国は存在しない。私たちの前でイスラエルという国名を口にしてはならない。」と。


イスラエルで中東和平のために長らく奮闘している方は言っていた。「ユダヤ人はえげつないことをしてきましたよ。特にテロの疑いのあるパレスチナ人に対しては容赦ない。家を潰し、徹底的にさら地にする。それに抵抗する人がいたら、その家もさら地にする。虐殺した情報も聞いている。」


何かを「貫く」人ってカッコイイ。

何かを「譲らない」人もカッコイイ。


でも、もしそれによって「和」が築けなくなるのなら・・・「貫かない人」「譲る人」の方が、もしかしたらカッコイイ。


先日YouTubeで、靖国神社の問題に関する討論番組を観た。

賛成する人も反対する人も、何だか「100%VS100%」。

共に自らの「正義」を貫いていた。

でも、討論の目的は何?

平和な未来を構築することじゃないの?

俺にはただの「論破のやり合い」にしか見えない。

本質的な目的な何?

平和な未来を構築することじゃないの?

靖国参拝賛成派でも反対派でも、この際どっちでもいい。

共に正義を貫き討論した結果、何が生まれるの?

相手に対する憎しみだけじゃないか。「机上の勝ち負け」だけじゃないか。

本質的な目的な何?

平和な未来を構築することじゃないの?


イスラエルとパレスチナだって、日本と中国・韓国の問題だって、もっともっとたくさん存在する世界中の対立だって、なんかみんなそうだ。

100%VS100%。

共に貫く。それが故に譲れない。そして対立に繋がり、最悪戦争へと導かれる。


僕は子ども達に話してきた。「絶対に絶対はない」と。

世界を見ていて思う。もっと「グレーな中での対話」が必要なんじゃないかって。

だって、お互いに「正しい」理由はある。お互いに「正義」はある。それは分かるけど、

でも、それをぶつけ合ったって、解決にならない。


世の中のことなんて、「絶対」とか「100%」なんてないはずだ。

僕は思う。もっとお互いにちょっとだけ譲って、自分が「グレー」であることを認めることがスタートなんじゃないかって。

あるアーティストは歌っていた。「中途半端を認めてしまえ~!」って。

それって、なんか深い。そこからが、平和へのスタートなんじゃないかって。

もっと、「グレーVSグレー」でいんじゃないかって。

今僕は、そんなことを思っております。


『世界人類が平和になりますように』

2013年11月30日。ロビーのテレビの音がバカみたいにうるさい、アスワンの安宿にて。



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【ふじもん世界放浪「放学記」第4章中東編 『正義論』vol,1】

2013-11-30 05:49:50 | 日記
2013年11月29日。


《正義って何だろう。正しい行いって何だろう。このエジプトという国にいると、そんな思いに否が応でも駆り立てられる。》


エジプトの電車の中。

現地のエジプト人が一般的に使用している電車は、なかなかに汚い。さながらインドのようだ。

この車両に乗っていると、自らの「正義」を試される場面に多々遭遇する。


頭の上にお菓子を入れた箱を乗せた小さな子どもが、引っ切り無しにお菓子を売りにやって来る。

外国人である僕を見ると、彼らは必ず足を止めてこちらをじっと見ている。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

僕は、こういう場面であっても必要のないものは、絶対に買わないようにしている。

ここでものを買ったところで、本質的な問題の解決には何ら繋がらないと考えているからだ。

しかし、僕は悩む。「早く立ち去ってくれ」と、いつも心の中で思いながら無視を続ける。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


歩くことさえままならない老人が、バクシーシ低・中所得者層が富裕層に要求する金品のこと)求めて電車の通路を引っ切り無しに歩いてくる。

この日僕が見た老人は、どうやら目が見えないようだった。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

僕はこういう状況であっても、絶対にお金をあげないようにしている。

ここでバクシーシを与えたところで、本質的な問題の解決には何ら繋がらないと考えているからだ。

しかし、僕は悩む。「早く立ち去ってくれ」と、いつも心の中で思いながら無視を続ける。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


ちょっと買い物をしたり食事をしようとしてお店に立ち寄る。

僕は当然値段を聞くわけだが、彼らは時にとんでもない値段をふっかけてくる。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

そういう時には、当たり前だが僕は値下げ交渉をする。

喧嘩とまではいかないが、けっこうやり合う時もある。

いくら僕が外国人であっても、「観光客価格」とか言われて現地人の価格よりも以上に高い支払いをする必要はないと思っているからだ。

しかし、僕は悩む。「日本円にしたら本当に微々たるもの。別にここで○○ポンド多く払ったっていいんじゃないか。その○○ポンドで、現地の人の助けになるのならば・・・。」と。

でもやっぱり納得がいかないので、僕はガッツリ交渉をする。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


街を歩いていると頼んでもいないのに紅茶を出してきたり、観光地では頼んでもいないのに勝手にガイドを始める人が必ずいる。

彼らは「フリー、フリー!」だと言ってくる。だから僕は、遠慮なく紅茶を頂戴してしまうことも多々ある。

どんなに断っても勝手にガイドを始めてしまう人もいるんで、放っといて説明を聞いてしまう。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

フリーだというからいただいた紅茶なのに、「飲んだんだから2ポンド寄越せ」と言ってくる輩も必ずいる。

断っても勝手に始めた説明なのに、「説明したんだからバクシーシを寄越せ」と言ってくる輩も必ずいる。

僕は「フリー」と事前に確認したものに関しては、たとえその紅茶をいただいてしまったとしても、絶対にお金を払わない。だって「フリー」って言ったんだから。

断っても勝手に始めたものに、お金を支払う筋合いはない。だから、たとえ1ポンドであっても、僕は絶対支払わない。たとえその説明をしっかり聞いてしまったとしてもだ。

しかし、僕は悩む。「でも紅茶は飲んじゃったし、払わないとまずいかな・・・。」とか、「しっかり説明も聞いてしまったし、ちょっとくらいお金を渡した方がいいのかな・・・。」とか考える。

でもやっぱり支払う必要はないと思うので、僕は絶対に払わない。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


※ちなみに街中での紅茶などは、仲良くなると本当にご馳走してくれることはよくあります。厄介な人もいますが、それ以上に優しくて温かいエジプト人も本当にたくさんいます。


ちなみにこの写真は、僕がどんなに断っても「いいから撮ってやる」と言ってくるので、撮ってもらった写真です。案の定、「撮ったんだからバクシーシ寄越せ」となりました。



小さな話だけど、人間として日本人として、どのように振る舞うべきなのだろう。僕は日々考えさせられる。

やっぱり僕は日本人だから、彼らから見れば「お金持ち」に他ならないのだ。それはよく分かる。

しかし、でも、いや、だからこそ・・・?何をすることが「正義」なのだろう。

あ~あ、分かんねぇなぁちっくしょう。

今日も悩んでお終いだな・・・(笑)。


2013年11月29日。若い従業員の愛想が悪くてちょっとイライラする、アスワンの安宿にて。



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【ふじもん世界放浪「放学記」第4章中東編 『正義論』vol,1】

2013-11-30 05:49:50 | 日記
2013年11月29日。


《正義って何だろう。正しい行いって何だろう。このエジプトという国にいると、そんな思いに否が応でも。》


エジプトの電車の中。

現地のエジプト人が一般的に使用している電車は、なかなかに汚い。さながらインドのようだ。

この車両に乗っていると、自らの「正義」を試される場面に多々遭遇する。


頭の上にお菓子を入れた箱を乗せた小さな子どもが、引っ切り無しにお菓子を売りにやって来る。

外国人である僕を見ると、彼らは必ず足を止めてこちらをじっと見ている。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

僕は、こういう場面であっても必要のないものは、絶対に買わないようにしている。

ここでものを買ったところで、本質的な問題の解決には何ら繋がらないと考えているからだ。

しかし、僕は悩む。「早く立ち去ってくれ」と、いつも心の中で思いながら無視を続ける。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


歩くことさえままならない老人が、バクシーシ(低・中所得者層が富裕層に要求する金品のこと)求めて電車の通路を引っ切り無しに歩いてくる。

この日僕が見た老人は、どうやら目が見えないようだった。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

僕はこういう状況であっても、絶対にお金をあげないようにしている。

ここでバクシーシを与えたところで、本質的な問題の解決には何ら繋がらないと考えているからだ。

しかし、僕は悩む。「早く立ち去ってくれ」と、いつも心の中で思いながら無視を続ける。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


ちょっと買い物をしたり食事をしようとしてお店に立ち寄る。

僕は当然値段を聞くわけだが、彼らは時にとんでもない値段をふっかけてくる。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

そういう時には、当たり前だが僕は値下げ交渉をする。

喧嘩とまではいかないが、けっこうやり合う時もある。

いくら僕が外国人であっても、「観光客価格」とか言われて現地人の価格よりも以上に高い支払いをする必要はないと思っているからだ。

しかし、僕は悩む。「日本円にしたら本当に微々たるもの。別にここで○○ポンド多く払ったっていいんじゃないか。その○○ポンドで、現地の人の助けになるのならば・・・。」と。

でもやっぱり納得がいかないので、僕はガッツリ交渉をする。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


街を歩いていると頼んでもいないのに紅茶を出してきたり、観光地では頼んでもいないのに勝手にガイドを始める人が必ずいる。

彼らは「フリー、フリー!」だと言ってくる。だから僕は、遠慮なく紅茶を頂戴してしまうことも多々ある。

どんなに断っても勝手にガイドを始めてしまう人もいるんで、放っといて説明を聞いてしまう。

僕はここで、自らの「正義」を試される。

フリーだというからいただいた紅茶なのに、「飲んだんだから2ポンド寄越せ」と言ってくる輩も必ずいる。

断っても勝手に始めた説明なのに、「説明したんだからバクシーシを寄越せ」と言ってくる輩も必ずいる。

僕は「フリー」と事前に確認したものに関しては、たとえその紅茶をいただいてしまったとしても、絶対にお金を払わない。だって「フリー」って言ったんだから。

断っても勝手に始めたものに、お金を支払う筋合いはない。だから、たとえ1ポンドであっても、僕は絶対支払わない。たとえその説明をしっかり聞いてしまったとしてもだ。

しかし、僕は悩む。「でも紅茶は飲んじゃったし、払わないとまずいかな・・・。」とか、「しっかり説明も聞いてしまったし、ちょっとくらいお金を渡した方がいいのかな・・・。」とか考える。

でもやっぱり支払う必要はないと思うので、僕は絶対に払わない。


僕のこの行動は、「正義」なのでしょうか?


※ちなみに街中での紅茶などは、仲良くなると本当にご馳走してくれることはよくあります。厄介な人もいますが、それ以上に優しくて温かいエジプト人も本当にたくさんいます。


小さな話だけど、人間として日本人として、どのように振る舞うべきなのだろう。僕は日々考えさせられる。

やっぱり僕は日本人だから、彼らから見れば「お金持ち」に他ならないのだ。それはよく分かる。

しかし、でも、いや、だからこそ・・・?何をすることが「正義」なのだろう。

あ~あ、分かんねぇなぁちっくしょう。

あ~あ、難しいなぁちっくしょう。