2014年3月6日。
《前から言っているように、僕はイスラム圏が大好きだ。何故なら、僕の前世はイスラム教徒だから(笑)。というのは冗談だが、何故かとっても居心地がいい。でも、ちょっとだけ悲しいこともある。そのことは全ての人類に共通する課題であり、僕自身の大きな課題でもある。》
アルジェリアとの国境に程近い砂漠の街、メルズーガ。土壁で造られた趣のある家々の合間をぬって歩いている時、何人かの子ども達がやってきた。
先ほど買ったお菓子やジュースを持って歩いている僕たちを見た彼らは、僕たちに「お菓子ちょうだい」とねだってきた。もちろんあげることはしないのだが、するとある1人の子どもが、なんと僕と一緒にいたもう1人の日本人に唾を吐きかけたというのだ。
スペインとの国境がまであと3時間程の小さな街、シャウエン。青と白で彩られた美しいこの街を、僕は1人歩いていた。
メディナ(旧市街)の中では所狭しと子ども達が遊びまわっている。僕はある場所で、サッカーをして遊んでいる子ども達に出会った。
「楽しそうでいいなぁ」と、微笑みながら彼らの横を通り過ぎた。しかしその後すぐのことだ。僕の後頭部にサッカーボールが飛んできて、僕の頭に直撃したのだ。
僕が振り返ると、子ども達はあっという間に走り去っていた。故意に当てたのだろう。子ども達も自分達が何をしているのかは、大よそ理解していると思われる。
このようなことは初めて経験することではない。ヨルダンやスーダンなどでも何度かあったことだ。しかしやっぱり、心が痛む。とても悲しい気持ちになる。
僕は思う。
1つ1つの事象は大したことではない。しかし、こういった「なんとなくの差別や偏見」って、ものすごく恐ろしいことだと思う。
以前にも述べたように、どうやらイスラム圏(概ねアラブ人)の中では、少なからずアジア人蔑視が存在しているようなのだ。しかし僕がここで問題にしたいのは、アラブ人の差別的意識の問題ではない。人間の心全体にはびこっている「差別的意識」についてなのだ。
僕の友人に唾を吐きかけた少年も、僕の頭にサッカーボールをぶつけた少年も、きっと日本人、もしくはアジア人から個人的に嫌な思いをさせられたことはないと思われる。でも、そういった行動に出てしまう。そこにある意識の背景が恐ろしいのだ。
極端な例だけど、もし自分の親が「○○人に殺されたんだ」となれば、その○○人に恨みの感情を抱くことだろう。それは人間として自然な感情だと思う。
しかしアラブ人が、ましてや子ども達がアジア人に対して抱く負の感情は、具体性があるものではない。「なんとなく」の感情なのだ。「なんとなく」なんだけど、アジア人を下に見ている。「なんとなく」なんだけど、バカにして見ている。ここが怖いのだ。
誤解しないでいただきたいのは、僕はたまたまアラブ人のことを例にあげているだけであるということだ。僕は全ての人間に、こういった具体性に欠ける「なんとなく」の負の感情が存在していると思う。
翻って日本人を眺めてみよう。本当に中立平等に「人」を見ることができていますか?全ての国の人を、全ての人種を、全ての民族を、同じ目線で眺められていますか?そこに色眼鏡は存在しませんか?
そんなことはないだろう。絶対に「色眼鏡」がそこには在るはずだ。
少なくとも、僕にはある。
旅をしながら常々思う。「人間なんてみんな同じ。同じ目線で分け隔てなく、人間を見ていこう」と。
でも、僕みたいな愚かで弱い人間には、それができないのだ。どうしてもどこかで「○○人は・・・」的な見方が残っている。
でもきっと、それは僕だけじゃないんじゃないかな。世界中の人々が、何らかの「なんとなく」に囚われていると僕は思う。
何が正義なのだろう。
つい100年前までは、他国を侵略し植民地化することは正義だった。差別や偏見など当然在るものだった。たった100年前の話だ。さらに当時は差別や偏見などじゃ済まない、略奪や虐殺までもが存在していた。それは人類の歴史から見れば「ついさっき」の話なのだ。
それに比べれば、人類は良い方向に向かっている・・・のかなぁ。でもあっちこっちで紛争は起こりまくりだし、今回僕も実際に紛争の影響で足止めされた国もある。やっぱり人類は何も変わっていないのかなぁ。
僕は以前から「世界は偉大なる教科書だ」と述べてきたのだが、訂正したいと思う。学校でもらう教科書には答えが書いてあるし、それを覚えればテストで点数は取れる。
でも「偉大なる教科書・世界」には、答えなどない。解決など到底不可能にも思える難解で複雑な問題がそこら中に書かれている。そのページ数もハンパではない。
だから僕は訂正して、これからはこう述べようと思う。「偉大なる問題集・世界」と。
モロッコの子ども達は、そんな問題集の1ページに書かれている問いを僕に投げかけてくれた。さて、果たして僕はいつになったらその「解答」を先生に提出することができるのか?今の僕には、まだまだ全くその目処が立たない・・・。
2014年3月6日。爽やかな日差しが燦々と差し込む、シャウエンのメディナにあるカフェにて。
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《前から言っているように、僕はイスラム圏が大好きだ。何故なら、僕の前世はイスラム教徒だから(笑)。というのは冗談だが、何故かとっても居心地がいい。でも、ちょっとだけ悲しいこともある。そのことは全ての人類に共通する課題であり、僕自身の大きな課題でもある。》
アルジェリアとの国境に程近い砂漠の街、メルズーガ。土壁で造られた趣のある家々の合間をぬって歩いている時、何人かの子ども達がやってきた。
先ほど買ったお菓子やジュースを持って歩いている僕たちを見た彼らは、僕たちに「お菓子ちょうだい」とねだってきた。もちろんあげることはしないのだが、するとある1人の子どもが、なんと僕と一緒にいたもう1人の日本人に唾を吐きかけたというのだ。
スペインとの国境がまであと3時間程の小さな街、シャウエン。青と白で彩られた美しいこの街を、僕は1人歩いていた。
メディナ(旧市街)の中では所狭しと子ども達が遊びまわっている。僕はある場所で、サッカーをして遊んでいる子ども達に出会った。
「楽しそうでいいなぁ」と、微笑みながら彼らの横を通り過ぎた。しかしその後すぐのことだ。僕の後頭部にサッカーボールが飛んできて、僕の頭に直撃したのだ。
僕が振り返ると、子ども達はあっという間に走り去っていた。故意に当てたのだろう。子ども達も自分達が何をしているのかは、大よそ理解していると思われる。
このようなことは初めて経験することではない。ヨルダンやスーダンなどでも何度かあったことだ。しかしやっぱり、心が痛む。とても悲しい気持ちになる。
僕は思う。
1つ1つの事象は大したことではない。しかし、こういった「なんとなくの差別や偏見」って、ものすごく恐ろしいことだと思う。
以前にも述べたように、どうやらイスラム圏(概ねアラブ人)の中では、少なからずアジア人蔑視が存在しているようなのだ。しかし僕がここで問題にしたいのは、アラブ人の差別的意識の問題ではない。人間の心全体にはびこっている「差別的意識」についてなのだ。
僕の友人に唾を吐きかけた少年も、僕の頭にサッカーボールをぶつけた少年も、きっと日本人、もしくはアジア人から個人的に嫌な思いをさせられたことはないと思われる。でも、そういった行動に出てしまう。そこにある意識の背景が恐ろしいのだ。
極端な例だけど、もし自分の親が「○○人に殺されたんだ」となれば、その○○人に恨みの感情を抱くことだろう。それは人間として自然な感情だと思う。
しかしアラブ人が、ましてや子ども達がアジア人に対して抱く負の感情は、具体性があるものではない。「なんとなく」の感情なのだ。「なんとなく」なんだけど、アジア人を下に見ている。「なんとなく」なんだけど、バカにして見ている。ここが怖いのだ。
誤解しないでいただきたいのは、僕はたまたまアラブ人のことを例にあげているだけであるということだ。僕は全ての人間に、こういった具体性に欠ける「なんとなく」の負の感情が存在していると思う。
翻って日本人を眺めてみよう。本当に中立平等に「人」を見ることができていますか?全ての国の人を、全ての人種を、全ての民族を、同じ目線で眺められていますか?そこに色眼鏡は存在しませんか?
そんなことはないだろう。絶対に「色眼鏡」がそこには在るはずだ。
少なくとも、僕にはある。
旅をしながら常々思う。「人間なんてみんな同じ。同じ目線で分け隔てなく、人間を見ていこう」と。
でも、僕みたいな愚かで弱い人間には、それができないのだ。どうしてもどこかで「○○人は・・・」的な見方が残っている。
でもきっと、それは僕だけじゃないんじゃないかな。世界中の人々が、何らかの「なんとなく」に囚われていると僕は思う。
何が正義なのだろう。
つい100年前までは、他国を侵略し植民地化することは正義だった。差別や偏見など当然在るものだった。たった100年前の話だ。さらに当時は差別や偏見などじゃ済まない、略奪や虐殺までもが存在していた。それは人類の歴史から見れば「ついさっき」の話なのだ。
それに比べれば、人類は良い方向に向かっている・・・のかなぁ。でもあっちこっちで紛争は起こりまくりだし、今回僕も実際に紛争の影響で足止めされた国もある。やっぱり人類は何も変わっていないのかなぁ。
僕は以前から「世界は偉大なる教科書だ」と述べてきたのだが、訂正したいと思う。学校でもらう教科書には答えが書いてあるし、それを覚えればテストで点数は取れる。
でも「偉大なる教科書・世界」には、答えなどない。解決など到底不可能にも思える難解で複雑な問題がそこら中に書かれている。そのページ数もハンパではない。
だから僕は訂正して、これからはこう述べようと思う。「偉大なる問題集・世界」と。
モロッコの子ども達は、そんな問題集の1ページに書かれている問いを僕に投げかけてくれた。さて、果たして僕はいつになったらその「解答」を先生に提出することができるのか?今の僕には、まだまだ全くその目処が立たない・・・。
2014年3月6日。爽やかな日差しが燦々と差し込む、シャウエンのメディナにあるカフェにて。
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