2014年3月27日。
《僕は一貫して言い続けてきた。物乞いには絶対に何もあげないと。でも今日、僕はその「正義」を破った。そして今まで経験したことのない、不思議な感覚に襲われたのだ。》
ここはドイツの中堅都市、ケルン。今僕はデュッセルドルフという街に滞在しているのだが、1日時間を取ってこのケルンまで足を運んだ。
至って普通の街といった感じのケルン。この街の中心部にはかなり立派な大聖堂が建っているのだが、そこで僕は1人の物乞いの女性を目にした。
以前から僕は一貫して同じことを言い続けている。「物乞いには決して何もあげない」と。
しかし今日、僕は不思議な感覚に襲われた。何故かこの物乞いの女性に何かを感じたのだ。何というか、このまま通り過ぎては絶対に行けないような・・・。そんな感覚だった。
僕は足を止めた。そして何だか分からないけど、その女性の近くでしばらく立ちすくんでいた。
その女性はただひたすらにコップを自らの前に出し、お金を求めていた。頭にはスカーフを被り、うつむいていて顔も見えない。どんな女性なのかも分からない。全く動くことなくその姿勢を保ち続けていた。
※写真を載せるのは良くないのかもしれませんが、それがこの女性です。僕は何故か、この女性から「何か」を感じていました。
不謹慎だとは分かっていた。でも僕は、何故かその女性を見つめ続けていた。何故だろう、何故か分からないけど、その女性に何かを感じていたのだ。
何人かの通りすがりの人が、彼女のコップにコインを入れていった。それを見ていて、僕はあることに気が付いた。
僕が見ていた間に(おそらく30分ちょっとだったと思うが)お金を入れていった人は、4人だった。そのうちの3人が有色人種で、2人が黒人で1人がアジア人。1人だけが白人だった。そしてその白人も健常者ではなく、障害をお持ちの方だった。
僕が見ていた時間はわずかに30分くらいだし、人数もわずかに4人。とてもデータになるものではないが、4分の3が有色人種で、残りの1人の白人も障害をお持ちの方だというのは、何か意味があるような気がしたのだ。
有色人種の人々は長い間、白人から差別的な扱いを受けてきた。残念なことに、その差別は完全に解消したとは言い難い。
そして障がい者への差別や偏見も、根強く残っている。
そんな「差別される側の当事者」が、施しを与えていたのだ。そのことに僕は何かを感じた。
またこういうことを書くと誤解されてしまうかもしれないが、僕は決して何も施しをしなかった白人を非難しているのではない。何よりこの僕自身が絶対に物乞いに施しはしないし、施すことが解決の手段だとは思っていないのだから。
しかし、たった4人とはいえ、そのうちの3人が有色人種で、1人の白人も障がい者だというのは、注目すべき現実だと思ったのだ。だから棒は今回、このブログを書こうと思った。
ちなみに僕は別に変な実験をするためにその場に立ちすくんでいたのではない。そのことだけはしっかりと明言しておきたい。
その様子を見ていて、僕はある動画を思い出した。「刺さる動画メディア」という動画サイトがあるのだが、その中に、アメリカで行われた人種差別に関する実験があった。
それはあるデパートで、白人の店員が黒人の客に差別的で非人道的な言動を取るというものである。そしてそれに対して周りの客がどのような反応を示すのかを実験したものであった。
その結果は興味深い。何らかの反応をしたのは、有色人種の方が多かったというのだ。
※興味のある方は、ぜひ動画をご覧下さい。
「マーティンルーサーキングの嘆き、未だに残る人種差別」
http://dout.jp/?s=%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5
もちろんそれとこれとが完全に一致するわけではないであろう。しかし、何かの繋がり、何かの意味はあるのかもしれない。これまでの歴史の中で積み重ねられてきた差別の歴史、そして今もまだ在る差別。
何か僕には、感じるものがあった。
そしてその場を離れるとき、僕はその女性に施しを与えた。
この旅の中で、僕が初めて物乞いの方に与えた施しだ。
そしてその後の女性の行動に、僕は心を打たれてしまった。
彼女は力弱い声で「ダンケシェーン」(ドイツ語で「ありがとうございます」の意)と言うと、胸の前で十字を切り、両手を合わせ、祈りを始めたのだ。
その祈りは僕のためなのか、それとも純粋に神への祈りなのか、それは分からない。しかしその力弱い声と両手を合わせた祈りの声が、僕の心に強く強く響いた。
そしてその祈りは、1分程度続いていたと思う。
何故か、涙が出てきてしまった。
こんなことは初めてだ。
いったい俺はどうしちまったんだ、こんなことで涙が出るなんて・・・。本当にそう思った。
何故この女性に僕が「何か」を感じたのかは分からない。でも、僕は考えた。
僕は「物乞いには何も与えない」という正義を貫いてきた。でも今日、僕はその正義を破った。しかし全く心地悪くはなかった。むしろ、僕の心の中にはある種の充実感さえ沸き上がっていた。
与えないのも正義かもしれない。しかしまた同様に「与える」のも正義なのかもしれない。
今日のこの時間を、僕はどう表現したらいいのか分からない。そんな不思議な時間だった。でもきっと、この日このタイミングでこの謎の体験がやって来たというのには、何か意味があるのだろう。
ケルンという何気ない街で起きた、何とも不思議な時間だった。
2014年3月27日。キッチンが夜10時で閉まってしまうのがちょっと痛い、デュッセルドルフの安宿にて。
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《僕は一貫して言い続けてきた。物乞いには絶対に何もあげないと。でも今日、僕はその「正義」を破った。そして今まで経験したことのない、不思議な感覚に襲われたのだ。》
ここはドイツの中堅都市、ケルン。今僕はデュッセルドルフという街に滞在しているのだが、1日時間を取ってこのケルンまで足を運んだ。
至って普通の街といった感じのケルン。この街の中心部にはかなり立派な大聖堂が建っているのだが、そこで僕は1人の物乞いの女性を目にした。
以前から僕は一貫して同じことを言い続けている。「物乞いには決して何もあげない」と。
しかし今日、僕は不思議な感覚に襲われた。何故かこの物乞いの女性に何かを感じたのだ。何というか、このまま通り過ぎては絶対に行けないような・・・。そんな感覚だった。
僕は足を止めた。そして何だか分からないけど、その女性の近くでしばらく立ちすくんでいた。
その女性はただひたすらにコップを自らの前に出し、お金を求めていた。頭にはスカーフを被り、うつむいていて顔も見えない。どんな女性なのかも分からない。全く動くことなくその姿勢を保ち続けていた。
※写真を載せるのは良くないのかもしれませんが、それがこの女性です。僕は何故か、この女性から「何か」を感じていました。
不謹慎だとは分かっていた。でも僕は、何故かその女性を見つめ続けていた。何故だろう、何故か分からないけど、その女性に何かを感じていたのだ。
何人かの通りすがりの人が、彼女のコップにコインを入れていった。それを見ていて、僕はあることに気が付いた。
僕が見ていた間に(おそらく30分ちょっとだったと思うが)お金を入れていった人は、4人だった。そのうちの3人が有色人種で、2人が黒人で1人がアジア人。1人だけが白人だった。そしてその白人も健常者ではなく、障害をお持ちの方だった。
僕が見ていた時間はわずかに30分くらいだし、人数もわずかに4人。とてもデータになるものではないが、4分の3が有色人種で、残りの1人の白人も障害をお持ちの方だというのは、何か意味があるような気がしたのだ。
有色人種の人々は長い間、白人から差別的な扱いを受けてきた。残念なことに、その差別は完全に解消したとは言い難い。
そして障がい者への差別や偏見も、根強く残っている。
そんな「差別される側の当事者」が、施しを与えていたのだ。そのことに僕は何かを感じた。
またこういうことを書くと誤解されてしまうかもしれないが、僕は決して何も施しをしなかった白人を非難しているのではない。何よりこの僕自身が絶対に物乞いに施しはしないし、施すことが解決の手段だとは思っていないのだから。
しかし、たった4人とはいえ、そのうちの3人が有色人種で、1人の白人も障がい者だというのは、注目すべき現実だと思ったのだ。だから棒は今回、このブログを書こうと思った。
ちなみに僕は別に変な実験をするためにその場に立ちすくんでいたのではない。そのことだけはしっかりと明言しておきたい。
その様子を見ていて、僕はある動画を思い出した。「刺さる動画メディア」という動画サイトがあるのだが、その中に、アメリカで行われた人種差別に関する実験があった。
それはあるデパートで、白人の店員が黒人の客に差別的で非人道的な言動を取るというものである。そしてそれに対して周りの客がどのような反応を示すのかを実験したものであった。
その結果は興味深い。何らかの反応をしたのは、有色人種の方が多かったというのだ。
※興味のある方は、ぜひ動画をご覧下さい。
「マーティンルーサーキングの嘆き、未だに残る人種差別」
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もちろんそれとこれとが完全に一致するわけではないであろう。しかし、何かの繋がり、何かの意味はあるのかもしれない。これまでの歴史の中で積み重ねられてきた差別の歴史、そして今もまだ在る差別。
何か僕には、感じるものがあった。
そしてその場を離れるとき、僕はその女性に施しを与えた。
この旅の中で、僕が初めて物乞いの方に与えた施しだ。
そしてその後の女性の行動に、僕は心を打たれてしまった。
彼女は力弱い声で「ダンケシェーン」(ドイツ語で「ありがとうございます」の意)と言うと、胸の前で十字を切り、両手を合わせ、祈りを始めたのだ。
その祈りは僕のためなのか、それとも純粋に神への祈りなのか、それは分からない。しかしその力弱い声と両手を合わせた祈りの声が、僕の心に強く強く響いた。
そしてその祈りは、1分程度続いていたと思う。
何故か、涙が出てきてしまった。
こんなことは初めてだ。
いったい俺はどうしちまったんだ、こんなことで涙が出るなんて・・・。本当にそう思った。
何故この女性に僕が「何か」を感じたのかは分からない。でも、僕は考えた。
僕は「物乞いには何も与えない」という正義を貫いてきた。でも今日、僕はその正義を破った。しかし全く心地悪くはなかった。むしろ、僕の心の中にはある種の充実感さえ沸き上がっていた。
与えないのも正義かもしれない。しかしまた同様に「与える」のも正義なのかもしれない。
今日のこの時間を、僕はどう表現したらいいのか分からない。そんな不思議な時間だった。でもきっと、この日このタイミングでこの謎の体験がやって来たというのには、何か意味があるのだろう。
ケルンという何気ない街で起きた、何とも不思議な時間だった。
2014年3月27日。キッチンが夜10時で閉まってしまうのがちょっと痛い、デュッセルドルフの安宿にて。
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