2014年3月15日。
※写真はフランス・パリの名所、凱旋門!これを見ると、「ああ、ヨーロッパだな~」と思いますね・・・!
《ヨーロッパに来て最も感じたこと。それは「楽だ」ということ。何が「楽」なのか?そこに1つ、僕の想いがある。》
モロッコからヨーロッパに入ってきた僕。数日過ごして、僕は感じた。なんて「楽」なんだろうと。
何が「楽」なのか?綺麗だとか電車が時間通りに来るだとか、そういう「楽」さも確かにある。しかし僕には、そうではない僕なりの深い「楽」に対する意味がある。
ヨーロッパで一番「楽」なこと。それは、僕を「無視」してくれるということ。
特にアフリカの多くの国にいるとき。当たり前だが僕は街を歩く。しかし、僕のことを「無視」してはくれない。いちいちいちいち、「チャイナ!」>だの「サディーガ!」(アラビア語で友達という意味らしいのだが、特にスーダンでは差別的な意味を含めてサディーガと声を掛けるらしい)だの「チンチョンチャン!」(中国語の発音を真似して、アフリカ地域の子ども達はよくアジア人である僕らにこの言葉を投げかけてくる。当然差別的な意味合いで)だの、声を掛けてくるのだ。
僕はただの一人間としてその場にいたい。しかしそうはさせてはくれないのだ。いちいちいちいち、僕という人間を「無視」することなく、ちょっかいを出してくる。
しかし、ヨーロッパではそれがない。僕のことを無視してくれるし、大人はもちろん子どもも僕を凝視してくることなどほとんどない。僕のことを1人の人間として「無視」してくれるのだ。
普通、無視されるのは辛い。いじめの典型的な方法でもある。しかし、ここでは「無視」が有り難いのだ。僕のことを「その他大勢」として放っといてくれるのだ。
実はこれが、本当に心地いい。
イスラム圏やアフリカ諸国で特に多いのだが・・・僕たちアジア人を無視してはくれない状況。
僕は以前こう書いた。「世界全てを植民地化しようとした白人社会の罪の根は深い」と。白人社会には大いなる罪が根底にあると、僕はそういう書き方をした。それはそれで間違いではないと思う。
しかし、現実はそこに矛盾がある。
今僕たちを差別的に見てくるのは、かつては差別をされる側で苦しんでいた黒人やアラブ人たちなのだ。そしてかつては激しい人種差別をしてきたはずの白人社会では、逆に僕たちを差別してこない。全くないなんてことはないのだが、それでもその数はかなり少ないと言っていいだろう。
皮肉なものだ。なぜこのような状況になってしまうのだろう。
僕には、主な理由は2つあると思う。
1つ目は、人間の内面的な弱さ。
いじめられてきた子どもが逆にいじめっ子になってしまうように、虐待を受けた子どもが親になったら虐待を繰り返すように、人間の心にはそういう「闇」と「発散」があるのだと思う。自分が受けてきた心のストレスを何らかの形で発散しないと、その人間の心は壊れてしまう。だから、たとえそれが苦しい体験であったのしても、それを繰り返してしまうのだろう。
2つ目は、僕は教育にあると思う。
人間の心を制御し整える大切な過程は、僕は教育にあると思う。それが宗教に基づくものであれ何であれ、人間の心を律する大切な意識は教育によって育まれると僕は思う。
しかし、いわゆる発展途上国と呼ばれている地域では、絶対的に教育が不足している。>アラブ圏ではイスラム教による教えが非常に強く浸透しているため、その教えが1つの「教育」として成り立っている。治安も比較的良い国が多い。しかしどうやら、非ムスリムに対しては、どうしても批判的な見方が根強いらしい。だからそこにアジア人への差別的な見方が入ってしまうのかもしれない。
「教育が成り立っていない」という言葉だけを受ければ、それは事実だと思う。しかしそれは何故なのか。そこにある複雑かつ解決困難な社会的背景を考えなければ、こういう話題を安易に口にしてはいけないのかもしれない。
いずれにせよ、今僕がいるヨーロッパは心地いい。みんなが「無視」をしてくれるから。
皮肉なものだ、「無視が心地いい」なんて・・・。世の中には、必要な「無視」もあるんだな。そんなことを考えながら、僕の初めてのパリの夜は更けていった・・・。
2014年3月15日。日本人がたくさんいてホッとできる、パリの日本人安宿にて。
世界一周 ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。「いいね!」と思っていただけたら、バナーにクリックをお願い致します!
※写真はフランス・パリの名所、凱旋門!これを見ると、「ああ、ヨーロッパだな~」と思いますね・・・!
《ヨーロッパに来て最も感じたこと。それは「楽だ」ということ。何が「楽」なのか?そこに1つ、僕の想いがある。》
モロッコからヨーロッパに入ってきた僕。数日過ごして、僕は感じた。なんて「楽」なんだろうと。
何が「楽」なのか?綺麗だとか電車が時間通りに来るだとか、そういう「楽」さも確かにある。しかし僕には、そうではない僕なりの深い「楽」に対する意味がある。
ヨーロッパで一番「楽」なこと。それは、僕を「無視」してくれるということ。
特にアフリカの多くの国にいるとき。当たり前だが僕は街を歩く。しかし、僕のことを「無視」してはくれない。いちいちいちいち、「チャイナ!」>だの「サディーガ!」(アラビア語で友達という意味らしいのだが、特にスーダンでは差別的な意味を含めてサディーガと声を掛けるらしい)だの「チンチョンチャン!」(中国語の発音を真似して、アフリカ地域の子ども達はよくアジア人である僕らにこの言葉を投げかけてくる。当然差別的な意味合いで)だの、声を掛けてくるのだ。
僕はただの一人間としてその場にいたい。しかしそうはさせてはくれないのだ。いちいちいちいち、僕という人間を「無視」することなく、ちょっかいを出してくる。
しかし、ヨーロッパではそれがない。僕のことを無視してくれるし、大人はもちろん子どもも僕を凝視してくることなどほとんどない。僕のことを1人の人間として「無視」してくれるのだ。
普通、無視されるのは辛い。いじめの典型的な方法でもある。しかし、ここでは「無視」が有り難いのだ。僕のことを「その他大勢」として放っといてくれるのだ。
実はこれが、本当に心地いい。
イスラム圏やアフリカ諸国で特に多いのだが・・・僕たちアジア人を無視してはくれない状況。
僕は以前こう書いた。「世界全てを植民地化しようとした白人社会の罪の根は深い」と。白人社会には大いなる罪が根底にあると、僕はそういう書き方をした。それはそれで間違いではないと思う。
しかし、現実はそこに矛盾がある。
今僕たちを差別的に見てくるのは、かつては差別をされる側で苦しんでいた黒人やアラブ人たちなのだ。そしてかつては激しい人種差別をしてきたはずの白人社会では、逆に僕たちを差別してこない。全くないなんてことはないのだが、それでもその数はかなり少ないと言っていいだろう。
皮肉なものだ。なぜこのような状況になってしまうのだろう。
僕には、主な理由は2つあると思う。
1つ目は、人間の内面的な弱さ。
いじめられてきた子どもが逆にいじめっ子になってしまうように、虐待を受けた子どもが親になったら虐待を繰り返すように、人間の心にはそういう「闇」と「発散」があるのだと思う。自分が受けてきた心のストレスを何らかの形で発散しないと、その人間の心は壊れてしまう。だから、たとえそれが苦しい体験であったのしても、それを繰り返してしまうのだろう。
2つ目は、僕は教育にあると思う。
人間の心を制御し整える大切な過程は、僕は教育にあると思う。それが宗教に基づくものであれ何であれ、人間の心を律する大切な意識は教育によって育まれると僕は思う。
しかし、いわゆる発展途上国と呼ばれている地域では、絶対的に教育が不足している。>アラブ圏ではイスラム教による教えが非常に強く浸透しているため、その教えが1つの「教育」として成り立っている。治安も比較的良い国が多い。しかしどうやら、非ムスリムに対しては、どうしても批判的な見方が根強いらしい。だからそこにアジア人への差別的な見方が入ってしまうのかもしれない。
「教育が成り立っていない」という言葉だけを受ければ、それは事実だと思う。しかしそれは何故なのか。そこにある複雑かつ解決困難な社会的背景を考えなければ、こういう話題を安易に口にしてはいけないのかもしれない。
いずれにせよ、今僕がいるヨーロッパは心地いい。みんなが「無視」をしてくれるから。
皮肉なものだ、「無視が心地いい」なんて・・・。世の中には、必要な「無視」もあるんだな。そんなことを考えながら、僕の初めてのパリの夜は更けていった・・・。
2014年3月15日。日本人がたくさんいてホッとできる、パリの日本人安宿にて。
世界一周 ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。「いいね!」と思っていただけたら、バナーにクリックをお願い致します!