今年の立川の憲法集会は福島から武藤類子さんを招いて「いま福島でおきていること」を中心に開かれました。大雨にもかかわらず参加者は多かったです。
武藤さんは郡山をとおってきたそうですが、モニタリングポストの放射線量表示が0.998msvを出していたそうです。
「気にしすぎる人」と、放射線量についてのとらえ方に差があり、仲がいい人にアドバイスをしても「もういい」と言われたり、考えることをやめたい疲れた日常があるということでした。
以下は私のつたないメモから要旨をくみ取っていただけるとありがたいです。
1、低線量被爆から子どもを守りたい。避難先、保養先を確保したい。明るい出来事として、伊達市から新潟の見附市へ学級移動が短期間ではあるが実現すること。
2、集団疎開裁判で郡山市を訴えた「安全な場所で教育を受ける権利」裁判では却下され、現在は仙台地裁で争われること。世界市民法廷へも出す予定。
3、医療保障の法案を提出したいこと。被爆者援護法の線引きなど厳しいが。今後必要になる。
4、福島原発訴訟団で東電の責任を問う。(二本松市のゴルフ場が起こした裁判もあった。)福島地検へ1,000人で告訴する告訴団の団長に武藤さんがなったそうです。
これらのことをしていかないと本当の復興はあり得ない。核のゴミをどうするのか。原発に頼らない社会を作るための新しい価値観をつくりたい。この告訴をすることでさまざまな分断作戦から福島が一つになれないか。
また原発事故で受けた心身の傷から回復するプロセスとして、明文化し外で出していくこと。
いま、福島では「脱原発」とは言えるが、「脱被爆」「脱放射能」とは言えない。先の希望がない気持の中で、日常の笑いあう楽しみもある。ベラルーシでは26年たった今でも子どもは1カ月の保養が必要とされている。
ご自身の暮らし方「どんぐりの森」のスライドからは、自然エネルギーを利用し、縄文人の、大量虐殺のなかった戦争をしない人々が食べていたというどんぐりを食べる試み(何度もあく抜きをし、ホクホクにして)をとりいれた豊かな日常が写されました。この生活は原発事故ですべて失ったということです。
電気を使う主である東京に住む私たちが福島を見捨てるわけにはいかないでしょう。
武藤さんは郡山をとおってきたそうですが、モニタリングポストの放射線量表示が0.998msvを出していたそうです。
「気にしすぎる人」と、放射線量についてのとらえ方に差があり、仲がいい人にアドバイスをしても「もういい」と言われたり、考えることをやめたい疲れた日常があるということでした。
以下は私のつたないメモから要旨をくみ取っていただけるとありがたいです。
1、低線量被爆から子どもを守りたい。避難先、保養先を確保したい。明るい出来事として、伊達市から新潟の見附市へ学級移動が短期間ではあるが実現すること。
2、集団疎開裁判で郡山市を訴えた「安全な場所で教育を受ける権利」裁判では却下され、現在は仙台地裁で争われること。世界市民法廷へも出す予定。
3、医療保障の法案を提出したいこと。被爆者援護法の線引きなど厳しいが。今後必要になる。
4、福島原発訴訟団で東電の責任を問う。(二本松市のゴルフ場が起こした裁判もあった。)福島地検へ1,000人で告訴する告訴団の団長に武藤さんがなったそうです。
これらのことをしていかないと本当の復興はあり得ない。核のゴミをどうするのか。原発に頼らない社会を作るための新しい価値観をつくりたい。この告訴をすることでさまざまな分断作戦から福島が一つになれないか。
また原発事故で受けた心身の傷から回復するプロセスとして、明文化し外で出していくこと。
いま、福島では「脱原発」とは言えるが、「脱被爆」「脱放射能」とは言えない。先の希望がない気持の中で、日常の笑いあう楽しみもある。ベラルーシでは26年たった今でも子どもは1カ月の保養が必要とされている。
ご自身の暮らし方「どんぐりの森」のスライドからは、自然エネルギーを利用し、縄文人の、大量虐殺のなかった戦争をしない人々が食べていたというどんぐりを食べる試み(何度もあく抜きをし、ホクホクにして)をとりいれた豊かな日常が写されました。この生活は原発事故ですべて失ったということです。
電気を使う主である東京に住む私たちが福島を見捨てるわけにはいかないでしょう。