(写真)黄金色のウンナンチュウキンレンの花
柏市の図書館の近くに諏訪神社というのがあり、その境内の日陰の崖下にこの花が黄金色で輝くように咲いていた。
その横には立て看板があり、 “雲南地湧金蓮、開花中”と大文字で書かれており、注目して欲しいという願望が表示されていた。
花の大きさは30cmの砲弾型で、花弁と思える黄金色のものは花を保護する苞(ほう)であり、隙間にある茶色のゴミのようなものが花で、咲き終わって枯れたもののようだ。
次々とこの苞が開き、花が顔を出す。その期間が長いもので半年も咲き続けるというので、ちょっと信じられない生態を有する。
葉は大きくバナナのようであり、バナナはバショウ科バナナ属の植物だが、「雲南地湧金蓮」は、近縁のムセラ属である。
日本での流通名では、 「耐寒バナナ」とも呼ばれるが、これは正しくない。
ただでさえ、この植物はまだ謎のところがあり、学名が混乱しているようだ。
「雲南地湧金蓮」は、大変珍しい花のようであり世界にこの花の存在が広まったのは、1999年に中国、昆明で開催された『世界園芸博』のようだ。
日本でも1990年に大阪花博が開催されたが、この『昆明世界園芸博』の目玉植物として展示されたという。
日本にはこれ以降に栽培が普及し、耐寒性があり半日陰でも育つので導入が進んだようだが、大形の植物でもあり場所を選ばなければならない。
「雲南地湧金蓮」にまつわる人々
「雲南地湧金蓮」が西欧の歴史に登場するのは、1885年に雲南の1200メートルの高山でフランスから派遣された神父であり植物学者のドゥラヴェー(Delavay、 Abbé) によって採取されたとある。
そして1889年にフランスの植物学者フランシェによって「Musa lasiocarpa Franch」として命名された。(現在はムセラ属であり、ここからこの植物の帰属する分類認識が間違うことになり現在も論争中。)
この植物を採取したドゥラヴェーは、Delavay, Pierre Jean Marie (1834-1895)のようであり、パリ外国宣教会宣教師として1876年に中国に赴任し、広東・香港の領事館に勤めていたハンス, ヘンリー・フレッチャー(Hance、Henry Fletcher 1827-1886)博士のために植物を収集することを行っていた。
1881年にフランスに帰国した際に、この植物の命名者であるフランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)と出会い、彼のために中国の植物を採取して送ることとなる。
フランシェは、フランス国立自然史博物館館長で、この当時のフランスが派遣したプラントハンターの元締めのような役割を担っており、彼のところには膨大な植物標本などが届いたという。
ドゥラヴェーが中国からフランシェのところに送った植物標本などは、総点数が約20万点もの植物標本を送り、種類は4000種、新種1500点が含まれていたというから、中国の植物を採取した一流のプラントハンターと言ってもよい。
しかし、フランスが派遣した複数人のプラントハンターからフランシェのところに届いた植物標本が膨大だったため、これら全てを整理・分類し体系化づけるのが出来ずに彼が死亡した。
ドゥラヴェーが採取した植物標本のコレクションは陽の目を見ることなく放置され、新種の第一発見者の名誉を得ることもなく1895年に雲南で死亡した。
ドゥラヴェーは、熱心な植物愛好家であり植物学者ではなかったが、雲南省にある子梅山(ツメイシャン)をこよなく愛し、徹底したしらみつぶしの植物調査を行ったという。だからこそ膨大な植物が採取されたのだろう。
歴史に“IF”ということはないが、フランス国立自然史博物館館長フランシェが、中国などに派遣したプラントハンターから送られてきた植物標本・種子・植物などを組織的に収集・分析・活用することを考えたならば、この領域でイギリス・オランダ等を越える情報センターになったろうし、ドゥラヴェーはその中心的伝説のプラントハンターになりえたのだろう。
ドゥラヴェーは残念だったが、“先を見れる”パートナーと出会えたヒトは、幸運に恵まれるということなのだろう。つかめるかどうかは本人次第だが・・・。
(写真)雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)の葉と花
雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)
・ バショウ科ムセラ属のー10℃までの耐寒性がある亜熱帯性の植物。
・ 学名は、Musella lasiocarpa ( Franch. ) H.W.Li(1978)。中国名が「雲南地湧金蓮」で、地面からわいてきた金色のハスを意味する。日本の流通名として「耐寒バナナ」、英名は Chinese yellow banana。
・ 中国名「雲南地湧金蓮」の由来は、地から湧き出た金の蓮(ハス)の花という意味。
・ 中国雲南省の2500m程度の高山が原産地で、インドシナ半島一体が生息地。
・ 樹高1m、株張り1.5m
・ 開花期は秋からで、一つの花が咲くと上に伸び続けて次々に開花し、1年間近く咲く。花の大きさは30cmで黄金色のハスの花のようだが、黄色の花弁のように見えるのは、実は苞(ホウ)で、本当の花はその間に小さく咲きあまり目立ちません
・ 花がない時期でも明るい緑の葉が美しく、観葉植物として楽しめる。
・ 日向、半日陰でも育ち、地植え、鉢植えで室内でも育てられる。
・ あ
・ 1999年に開催された昆明世界園芸博で目玉商品の一つとして展示されてから日本でも普及し始めた。(大阪で開催された花博1990年)
最初の分類はムサ属
Musa lasiocarpa A. R. Franchet, (1889)
命名者
フランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)
フランスの植物学者、国立自然史博物館館長で、アルマン・ダヴィット、ジャン・マリー・ドゥラヴェー、ポール・ギヨム・ファルジュなどのプラントハンターが収集した中国・日本などの植物を研究した。
Li, Hsi Wen (1931-)
Wenは、「雲南地湧金蓮」の分類で論争となっていた“ムサ属(Musa)”と“ムセラ属(Musella)”を1978年に別の独立した属とした。
柏市の図書館の近くに諏訪神社というのがあり、その境内の日陰の崖下にこの花が黄金色で輝くように咲いていた。
その横には立て看板があり、 “雲南地湧金蓮、開花中”と大文字で書かれており、注目して欲しいという願望が表示されていた。
花の大きさは30cmの砲弾型で、花弁と思える黄金色のものは花を保護する苞(ほう)であり、隙間にある茶色のゴミのようなものが花で、咲き終わって枯れたもののようだ。
次々とこの苞が開き、花が顔を出す。その期間が長いもので半年も咲き続けるというので、ちょっと信じられない生態を有する。
葉は大きくバナナのようであり、バナナはバショウ科バナナ属の植物だが、「雲南地湧金蓮」は、近縁のムセラ属である。
日本での流通名では、 「耐寒バナナ」とも呼ばれるが、これは正しくない。
ただでさえ、この植物はまだ謎のところがあり、学名が混乱しているようだ。
「雲南地湧金蓮」は、大変珍しい花のようであり世界にこの花の存在が広まったのは、1999年に中国、昆明で開催された『世界園芸博』のようだ。
日本でも1990年に大阪花博が開催されたが、この『昆明世界園芸博』の目玉植物として展示されたという。
日本にはこれ以降に栽培が普及し、耐寒性があり半日陰でも育つので導入が進んだようだが、大形の植物でもあり場所を選ばなければならない。
「雲南地湧金蓮」にまつわる人々
「雲南地湧金蓮」が西欧の歴史に登場するのは、1885年に雲南の1200メートルの高山でフランスから派遣された神父であり植物学者のドゥラヴェー(Delavay、 Abbé) によって採取されたとある。
そして1889年にフランスの植物学者フランシェによって「Musa lasiocarpa Franch」として命名された。(現在はムセラ属であり、ここからこの植物の帰属する分類認識が間違うことになり現在も論争中。)
この植物を採取したドゥラヴェーは、Delavay, Pierre Jean Marie (1834-1895)のようであり、パリ外国宣教会宣教師として1876年に中国に赴任し、広東・香港の領事館に勤めていたハンス, ヘンリー・フレッチャー(Hance、Henry Fletcher 1827-1886)博士のために植物を収集することを行っていた。
1881年にフランスに帰国した際に、この植物の命名者であるフランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)と出会い、彼のために中国の植物を採取して送ることとなる。
フランシェは、フランス国立自然史博物館館長で、この当時のフランスが派遣したプラントハンターの元締めのような役割を担っており、彼のところには膨大な植物標本などが届いたという。
ドゥラヴェーが中国からフランシェのところに送った植物標本などは、総点数が約20万点もの植物標本を送り、種類は4000種、新種1500点が含まれていたというから、中国の植物を採取した一流のプラントハンターと言ってもよい。
しかし、フランスが派遣した複数人のプラントハンターからフランシェのところに届いた植物標本が膨大だったため、これら全てを整理・分類し体系化づけるのが出来ずに彼が死亡した。
ドゥラヴェーが採取した植物標本のコレクションは陽の目を見ることなく放置され、新種の第一発見者の名誉を得ることもなく1895年に雲南で死亡した。
ドゥラヴェーは、熱心な植物愛好家であり植物学者ではなかったが、雲南省にある子梅山(ツメイシャン)をこよなく愛し、徹底したしらみつぶしの植物調査を行ったという。だからこそ膨大な植物が採取されたのだろう。
歴史に“IF”ということはないが、フランス国立自然史博物館館長フランシェが、中国などに派遣したプラントハンターから送られてきた植物標本・種子・植物などを組織的に収集・分析・活用することを考えたならば、この領域でイギリス・オランダ等を越える情報センターになったろうし、ドゥラヴェーはその中心的伝説のプラントハンターになりえたのだろう。
ドゥラヴェーは残念だったが、“先を見れる”パートナーと出会えたヒトは、幸運に恵まれるということなのだろう。つかめるかどうかは本人次第だが・・・。
(写真)雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)の葉と花
雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)
・ バショウ科ムセラ属のー10℃までの耐寒性がある亜熱帯性の植物。
・ 学名は、Musella lasiocarpa ( Franch. ) H.W.Li(1978)。中国名が「雲南地湧金蓮」で、地面からわいてきた金色のハスを意味する。日本の流通名として「耐寒バナナ」、英名は Chinese yellow banana。
・ 中国名「雲南地湧金蓮」の由来は、地から湧き出た金の蓮(ハス)の花という意味。
・ 中国雲南省の2500m程度の高山が原産地で、インドシナ半島一体が生息地。
・ 樹高1m、株張り1.5m
・ 開花期は秋からで、一つの花が咲くと上に伸び続けて次々に開花し、1年間近く咲く。花の大きさは30cmで黄金色のハスの花のようだが、黄色の花弁のように見えるのは、実は苞(ホウ)で、本当の花はその間に小さく咲きあまり目立ちません
・ 花がない時期でも明るい緑の葉が美しく、観葉植物として楽しめる。
・ 日向、半日陰でも育ち、地植え、鉢植えで室内でも育てられる。
・ あ
・ 1999年に開催された昆明世界園芸博で目玉商品の一つとして展示されてから日本でも普及し始めた。(大阪で開催された花博1990年)
最初の分類はムサ属
Musa lasiocarpa A. R. Franchet, (1889)
命名者
フランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)
フランスの植物学者、国立自然史博物館館長で、アルマン・ダヴィット、ジャン・マリー・ドゥラヴェー、ポール・ギヨム・ファルジュなどのプラントハンターが収集した中国・日本などの植物を研究した。
Li, Hsi Wen (1931-)
Wenは、「雲南地湧金蓮」の分類で論争となっていた“ムサ属(Musa)”と“ムセラ属(Musella)”を1978年に別の独立した属とした。