モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その6.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-03 10:31:38 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その6:
法衣を着たプラントハンター ② デラヴェ、ピエール・ジーン・マリー

(写真)デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834–1895)肖像画
        
(出典)jardin-secrets.com

デラヴェ(Delavay ,Père Jean Marie 1834-1895)は、イエズス会の宣教師として三回中国に来ている。(第一回1867-1880、第二回1882-1891、第三回1894-1895)

最初の伝道は、1867年、広東の東にあるHui-chou(恵州、ホイチョウ)に赴任した。
ダビッド(David ,Jean Pierre Armand 1826-1900)が中国に来てから5年後であり、この翌年にダビッドはパリ自然史博物館の契約プラントハンターとなるが、デラヴェは純粋な宣教師として赴任している。

しかし、デラヴェは大の植物マニアで、1880年にフランスに帰国するまでの約13年間にHui-chou周辺の探検、かなり遠い雲南地方への探検旅行を行っていた。
探検旅行には現代でも結構な費用がかかるが、この時はパリ自然史博物館とは無関係で、不思議なことに、英国の上海・黄浦領事館の副領事ハンス、ヘンリー・フレッチャー(Hance,Henry Fletcher 1827-1886)のために植物採取をしていた。

しかし、ハンスは大スポンサーでなかったようで、デラヴェは、費用がないためか、或いは、彼自身の好みかわからないが荷物も少なくたった一人で徒歩での探検旅行をしたようだ。この点では、先輩プラントハンターのダビッドに似ているがそれよりももっと簡素化していたようだ。

スポンサーのハンスは、単なる外交官ではなく植物学でも実績があり、この当時の英国の偉大な植物学者であるベンサム(Bentham, George 1800-1884)が1861年に著した『Flora Hongkongensis(香港の植物相)』への補足を1873年に発表している。

1881年フランスに帰国したデラヴェは、自然史博物館館長のフランシェ(Franchet, Adrien René 1834-1900)と会い中国でのプラントハンティングの契約をする。これを仲介・説得したのが先に中国を探検したダビッドだった。

デラヴェは、1882年に中国に戻り、雲南省大理府(ターリーフ)の北西にある丘陵地帯Dapingzi に配属され、ここにベース基地を構える。雲南省は、ベトナム、ラオス、ミャンマ、チベットと国境を接する中国南西部にあり、デラヴェが活動したところは、チベット・ビルマの少数民族が居住する大理の側の耳のような形の湖耳海(Erha)の北に位置する。

(地図)デラヴェが布教と採取活動をした拠点(雲南、大理周辺)地図 by google
     

     

Google earthで上空から見ると標高2000m前後の高地にある盆地で、彼自身も後でわかったことだが、デラヴェが赴任したこの地域一帯は、世界でも有数の多様な植物が育っているところだった。

1883年には最初の採取した植物標本がパリ自然誌博物館に届き、フランシェがこれを解説し『デラヴェ氏採集植物(Plantae Delavayanae)』(1889-1890)を出版した。

デラヴェは、雲南、大理府(ターリーフ)子梅山(ツメイシャン)に60回も登り、この山を“我が庭、雲南のモンブラン”と称していたが、この一帯で高山植物を採取した。彼は、ダビッドほど様々な学問に通じていなかったが、その植物探索スタイルは徹底していて、秩序立て計画的に細部までリサーチしたので見逃すということがなかったという。
これが、フランシェに良く整理された詳細で驚異的なほどの約20万点もの植物標本を送ることにつながり、その中にはヨーロッパで知られていなかった新種1500品種が含まれていた。

フランシェは、デラヴェが収集した植物コレクションを絶賛した。特に、個別の植物に関しての注意深いメモはこれまで見たことのない水準と高い評価をしている。

デラヴェは1888年にペストにかかったので植物探索をあきらめ、香港に移動し治療をしたが回復が思わしくなかったので1891年にフランスに帰国した。

雲南滞在期間が約10年なので、年間に約2万点もの植物を採取したことになる。植物相が豊かなところが赴任地だったという幸運もあるが、デラヴェの一芸に特化するプロフェッショナル性があったからこそ、採取した植物標本の数及びその観察メモのクオリティが高かったと思う。根気と緻密さが必要なデラヴェのようなことは、私には出来ないだろうなとため息が出てしまう。

デラヴェは雲南の植物が恋しく1894年にまた戻ってきた。もちろん植物採取の成果もあったが、病に倒れ1895年12月31日にこの地でなくなった。

デラヴェが発見した植物とツツジ
デラヴェが発見した新種は1500とも1800種とも言われている。この食い違いは、あまりにも多くの標本・タネをパリ自然誌博物館のフランシェに送ったので、整理できずに未開封の箱が多数残ったようだ。また、フランシェの目的は中国の植物相の分類と研究なので、送られたタネの管理がずさんだったためフランスで栽培品種とならなかったという。

二回目にフランスに帰ったデラヴェは、フランシェだけにタネを送っていたのでは、フランスの庭で栽培される花とならない。ということに気づいたに違いない。
英国のヴィーチ商会と同じようなパリにある育種商ヴィルモラン(Vilmorin, Maurice Lévêque de 1849–1918)にもタネを送った。
ヴィルモランはダビッドから始まったフランスの宣教師とのネットワークを維持して行くことになるので、このルートもダビッドから教えられたのだろう。

さすがに学者と商人の違いは歴然で、フランシェは多くの新種を発見・認定してくれたが、ヴィルモランは数少ないが栽培できる品種をタネから蘇生させてくれた。
そして、デラヴェが発見したもっと多くの種は、英国のプラントハンター、アーネスト・ウイルソン、ジョージ・フォーレストなどが後に英国に持ち込むことになる。

デラヴェがフランスに持ち込んだ植物は、その採取・発見した品種の数に較べて数少ない。ツツジ属の植物がいくつかあるが、その中で1886年に発見し1889年にフランスに持ち込まれた「Rhododendron rubiginosum(紅棕杜鵑)」がある。

(写真)デラヴェがフランスに導入したツツジ「Rhododendron rubiginosum(紅棕杜鵑)」
    
(出典)oregonstate.edu

余談だが、この時代の英国とフランスはライバル関係にあり重要な情報交換があまりされなかったようだ。しかし、育種業のヴィーチ商会及びこのライバルとしてプラントハンターを派遣したリバプールの綿花仲買商ビュアリーは、中国雲南、チベットの植物相の魅力をヘンリー、オーガスティン(Henry ,Augustine 1857-1930)からだけでなく、フランス経由でも知っていたようだ。
この複数の情報があったので、1900年前後から雲南、チベットが英国のプラントハンティングのターゲットとなった。
結果としてはライバルに塩を送り、フランスより40年ほど遅れて取り組んだ英国に花も実も持っていかれたようだ。
何のためにプラントハンターを送り込んだのかというと、知ることが目的になってしまったフランス。手に入れ活用することが目的の英国の違いが出たようだ。或いは、40年という時間で欲求は変化していくのでこの時間の差なのかもわからない。
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