モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その8.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-12 21:43:52 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その8:
先駆的なプラントハンター、ジョージ・フォーレストの旅

ツツジとサクラソウの偉大なプラントハンター、ジョージ・フォーレスト(Forrest, George 1873-1932)の旅は、フィクションの冒険小説を読むような感じがする。何故フィクションかというと、彼はフランスの宣教師デラヴェ達のように日記、自伝の著作物などのドキュメントを残さなかった。
わずかに手紙があるだけで、根っからのモノ書きではなく行動する人間なのだ。
この手紙と手紙の間を埋めるとフィクションかと思われるほどの数々の冒険があった。

フォーレストは、1904年5月14日にエジンバラを発ち、この年の8月に中国・雲南の騰越(トンユエ、現在は騰沖)に着いた。
騰沖はミャンマと国境を接するところにあり、ミャンマとインドの宗主国英国と清朝との貿易拠点として繁栄したところでありここには英国領事館があった。
ここの領事リットン(George Litton)は探検家でもあり、フォーレストを歓迎し落ち着いてから一緒に探検に出かけた。

フォーレストは騰沖にベース基地をおき、8月過ぎは植物の採取には既に遅くなっていたが、リットンとともに麗江、揚子江流域、メコン川沿いの地域を土地勘を養う意味でも探検旅行をした。
フォーレストが探検した場所は、大理・槍山、麗江・玉龍雪山、徳欽・三江併流などであり、リットンという友人と植物の宝の山を手に入れることになる。

動植物の宝庫北西雲南地方

(地図)フォーレストのフィールド(騰沖、大理・槍山、麗江・玉龍雪山、三江併流)by google
  

  

フォーレストが活動したところは、フランスの宣教師デラヴェが活動したところも含まれ、雲南のこの周辺は複雑多様な気候条件がそろった世界でも動植物の多様性があるところという。
どれだけ複雑多様かといえば、ヒマラヤ山脈が造られた時にインド大陸のプレートとユーラシア大陸プレートがぶつかり、南北に彎曲して山脈(横断山脈)が形成された。この山脈にそってインド洋からのモンスーンが駆け上がり大量の雨を降らせる。標高の低いところは亜熱帯植物がジャングルとなり、標高が高いところでは温帯植物・高山植物が咲き、東南アジアの大河のうち金沙江(揚子江源流)、瀾滄江(メコン川源流)、怒江(サルウィン川源流)3つもの源流がこのあたり(三江併流地域と呼ぶ)から深い渓谷を造って流れ出る。

このあたりを唐の時代からの交易路があり、雲南の茶とチベットの馬を交換したので茶馬古道(ちゃばこどう)というが、フォーレストが活動した大理(ダリー)、麗江(リーチャン)、徳欽(デチェン)、ラサなどの主要都市がこの道筋にある。

雲南省麗江市の北方にある玉龍雪山(Yulong Xue Shan)は、氷河がある北半球最南端の山で標高5596メートルもありいまだ誰も登頂していないというが、この周辺も三江併流地域同様に動植物の宝庫でもある。

ノンフィクションアドベンチャー

(写真)フォーレストと犬
    
(出典)王立エジンバラ植物園(以下の2点も同様)

フォーレストの生死をかけたアドベンチャーは、意外なところから起こった。
チベットと英国・清朝中国との紛争だ。

1903年7月7日英領インド軍の大佐ヤングハズパンド(Younghusband、Francis Edward 1863-1942)が遠征軍を率いてチベットに侵入した。翌年1904年9月7日にイギリスが、チベットとチベット・インド条約を結び、チベットを支配下に置く事態になった。
これが清朝政府を刺激し、ダライラマや諸侯による自治に委ねてきた旧制を廃し、チベットを清朝中国が直接掌握することを決意させることになり、1905年趙爾豊(ちょう じほう)の四川軍がチベットに侵入した。

フォーレストの2年目は、今でも解決していない火を噴き始めたばかりのチベットとの紛争地帯に、英国人であるフォーレストが中国側から飛び込んでいったから大変だ。

ここから先がノンフィクションなのかフィクションが入っているのか良くわからないが、(大筋では間違っていないと思うが)、フォーレスト必死の逃避行となる。
話の筋としては、1905年7月にフォーレストは2年目の探検旅行を行い、徳欽から二日半の徒歩距離にある茨固(ツーク)に拠点をつくったが、徳欽がチベット人に占領され中国人駐屯兵が虐殺されたという知らせが届いた。
メコン川沿いにある茨固から下流にある安全なところに避難するために、そこに居住していたフランス人宣教師2名、中国人キリスト教徒の家族、フォーレストのグループ17名など総人数80名が脱出を図った。

だが、生き残ったものは14名でフォーレストのグループでは彼一人だけが生き残る。
フォーレストが難を逃れたのは、崖下に飛び降りジャングルに転げ込んだからだが、ここからが悲惨な逃避行となる。
チベットラマ僧に先導された追っ手に獣狩りのように追い回され、雨が降りしきる密林を靴跡がつかないように裸足になり、さらに5000mを超える雪が残る尾根を素足でこえるなど難行苦行が続き、食糧もなく逃げ惑うこと21日間。
シルヴェスター・スタローン主演の“ランボー”といえども困難な逃避行だったろうと思う。

イギリスでは、エジンバラ植物園のバルフォアがスポンサーのビュアリーに「フォーレストは死んだと思われる。」と書き送っていたが、フォーレストは身一つだったが生き残った。
安全な大理に戻ったフォーレストは、バルフォアに手紙を書いた。『私は全てのものを失いました。700種もの乾燥した植物標本、70種ものタネ、カメラと50を超える植物のネガ写真、そして最悪なのは最高の季節を失ったことでありこれが私を悲しませています。』

フォーレストは、2年目の成果が重要なことは良く承知していて、雲南西北部からチベットに入った三つの大河(揚子江、メコン、サルウィン)が平行で走る三江併流地域一帯が植物の宝庫であり、危険地帯であることもわかっていたが、生きるためか、名誉のためか、或いは、恋人クレメンティーナのためか、病がいえない身体に鞭打って9月末に旅に出ることにした。エジンバラ植物園の同僚であるクレメンティーナとは帰国後の1907年4月に結婚するので、彼女との生活がかかっていたのだろう。

さすがにメコン川上流からの逃避行を経験したので、今度はメコン川より西にあるサルィン川上流を友人でもある英国領事リットンとともに探検した。チベットに最も近く蛮勇で知られた少数民族の黒リス族が住んでいるが、意外と平穏に亜熱帯気候のジャングルと高地で2ヶ月間を過ごすことが出来た。

狂気に支配された人間も恐いけど自然もやはり恐かった。12月13日に探検から騰沖に戻るが、翌年初めにリットンがマラリアで倒れ死亡した。彼は雲南・騰沖の地で眠り、この26年後にフォーレストもリットンの隣で眠ることになる。
やはりジャングルは恐かった。フォーレストもマラリアの毒をもらい1906年夏に倒れることになる。

(写真)キャンプ基地
  

勝負の年1906年は早くから始動する。
1905年の逃避行となった探索の旅では17人の植物コレクターを連れて行ったが、全員殺害されてしまったので新しいチーム作りを始めた。

3月から8月まで雲南省麗江市の北方にある玉龍雪山(Yulong Xue Shan)でキャンプをはり植物採取を行った。このエリア一帯は、山麓から植物生存の限界である5000mのところまで多様な植物が群生している宝庫だった。

しかし、フォーレストは、マラリアが発病したので大理に引き返し治療に専念した。かなり重症であり帰国を奨められたが、このまま帰ったのでは成果がないため、“死か成果か”を選択したようだ。

フォーレストは、戦略眼をもったプラントハンターの先駆者だった。初年度の1904年は、到着した時期が8月過ぎで採取するには時期が遅すぎていたので、植物相の視察調査に徹して採取場所を絞り込んでいた。
2年目の1905年は、チベットのラマ僧に追われる逃避行と友人のリットン領事を亡くし自分もマラリアをもらったサルィン川上流の旅と散々な目にあったが、現地に溶け込む術を学んだ。
3年目の1906年は成果を出さないと後がない年であったが、成果が出る仕組みを考案していた。

(写真)コレクター達
  
フォーレストの最大の特徴は、ローカル専門知識の価値を認めることでの先駆者で、フォーレスト以前のプラントハンターが個人主義であったのに対して、その地域の植物相を知っている現地人を採用し、そして、教育して組織的に植物採取を行うところにある。特に、雲南・麗江ナーシー族自治県とその周辺区域に居住する少数民族ナーシー族(Naxi)の中からコレクターを採用した。このシステムが、1906年の成果として結びついた。

フォーレストがマラリアで現場からリタイアーした時でも、彼が教育し訓練したコレクターチームはリーダーを中心に決められた仕事をしていた。
幸いフォーレストも奇跡的に回復に向かい現場復帰することが出来た。
このフォーレストの植物採取のシステムが、多数の植物標本、数百ポンドの種、何千もの植物の根・塊茎などの莫大な積荷とともに1906年後半に英国に帰国することができた。
この中には、彼の名を高めるツツジとサクラソウが入っていた。

珍しい植物との出会いは、開花している時期しかなく偶然の出会いしかない。タネを取るにはその2-3ヵ月後まで待たなければならない。この年に一度しかないという限界を乗り越えたのがフォーレストであり、2年で成果が出せる手法を編み出したともいえそうだ。

(続く)
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