No3:
サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎??
メキシコのサルビアの発見(といっても現地人ではなく西欧人によるが、)の記録は1829年から始まる。そして初期の頃は、採取したコレクター或いはプラントハンターの人物が良くわからない。
その一人にアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)がいる。
名前からフランス人と思われ1833年頃に活躍した人物としかわからない。
アンドリューは、1833年から1834年4月頃にメキシコ南西部及びサン・フェリッペ(カリフォルニア)でサルビア7種を採取している。この中で現在でも栽培されている有名な品種があり、それが「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」だ。
(写真)サルビア・メキシカーナの園芸品種“ライムライト”
「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」は、メキシコ中部の800-2000mの地域の森の端・ふちに生息し、“メキシカンセージ”とも呼ばれる。
同じ地域に生息する「サルビア・イエローマジェスティ」の場合は、森の中に入りちょっとした空白地での木洩れ日で大きく成長する生き方をするが、「サルビア・メキシカーナ」は、森の中に入っていかないので、森に守られない代わりに草丈をあまり大きくさせずに森の周辺で光りを吸収する草丈などを形成したのだろう。
庭に導入されたのは1970年代と遅く、バークレイにあるカルフォルニア大学の植物園のために、メキシコの中部にあるQuerétaro州から1978年に愛称ボブ(Robert Ornduff 1932-2000)によって持ち出されたという。
ボブは、カルフォルニア大学バークレー校で30年間も務め、学部長、大学付属植物園長などを務めたカルフォルニア植物相の権威でもあった。
推理?? “G・アンドリュー”
「サルビア・メキシカーナ」を採取したという“G・アンドリュー”はどういう人物なのだろうかということが気になる。
彼の名前が登場するのは、スイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)の1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13に書かれている。
ドゥ・カンドールが死亡してから11年後に出版されているので奇異に思うだろうが、彼の息子が父の遺志を継ぎ残された原稿を編集出版したのでこうなった。
そこには、“1833年にメキシコで植物採取をしているが、アンドリュー自身は著作がない”と書かれているだけで、“G・アンドリュー”が何者かを引き継がなかったようだ。
こうなると関連するデータ、情報から推理をせざるを得ない。
“G・アンドリュー”は、ドゥ・カンドールと同世代か若い年代だと思われるので、時代背景を知るためにドゥ・カンドールの人物像から描いてみよう。
(写真)Augustin Pyramus De Candolle
ドゥ・カンドールは、リンネと並び称されてもよい植物学者だと思う。彼のオリジナルな考えである“自然との競争”はダーウィンに影響を及ぼし、また、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出した。
ドゥ・カンドールの家系は、フランス・プロヴァンス地方の旧家で16世紀後半の宗教的迫害でスイスに逃れた。フランス革命後の1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をする。
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。
この三人の関係だが、バラの絵師ルドゥーテを育てたのはレリティエールで、自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
レリティエールは、植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。もっともこのイギリス行きは、1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。
ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。
フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后と三代の皇后に仕えることになる。
レリティエール暗殺後は、ルドゥーテが主導で1802年『ユリ図鑑』などのコピーをドゥ・カンドールが書くなど、当時のボタニカルアートとサイエンスの極みを体験することになる。
ドゥ・カンドールは、1816年にジュネーブに戻り大学で植物学を教えながら、植物分類の自然な体系の研究とその成果の著作に専念する一方で、植物園、博物館などの設立を行う。
さて、ドゥ・カンドールと“G・アンドリュー”との接点だが、G・アンドリュー”は、211種の新しい植物をメキシコで採取しているので素人の植物採取者ではなさそうだ。ドゥ・カンドールは、スイスの前に1806-1815年までモンペリエ大学の植物学教授だったので、“G・アンドリュー”とはフランスかスイスが接点になりそうだ。
そこで、“G・アンドリュー”が活躍した1830年前後のフランスとメキシコの状況を確認してみると、
ナポレオンが失脚した後に、フランス革命で斬首されたルイ16世の弟ルイ18世が王位につき1815年にブルボン朝が復活した。貴族や聖職者を優遇し言論の弾圧などの政策をとったので、市民革命といわれるフランス革命を推進したブルジョアと利害が衝突し、1830年7月に“7月革命”が起こりブルボン王朝は崩壊した。
一方のメキシコはといえば、コロンブス以降300年間スペインの支配下にあったが、ヨーロッパ大陸の争いが影響し、ナポレオンがイベリア半島に進攻し、兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世に据える。当然スペインの植民地もナポレオンの支配下となるがことはそう簡単ではなく、独立運動が中南米のスペイン植民地で起きた。
メキシコでは1810年にミゲル・イダルゴ神父が主導した独立革命がおき、ナポレオンが失脚するとスペインが盛り返したが1821年に独立を獲得した。
以後メキシコは、スペイン、フランス、アメリカ及びメキシコで生れた白人等との権力闘争・戦争が長く続くことになる。
“G・アンドリュー”の正体が明らかでないということは、本人が自分の正体を明らかにしたくないか、或いは、ドゥ・カンドールが明らかにしたくない何かがあったと考えると、一つの可能性として1830年7月に起きたフランスの7月革命で失脚した階層(ブルボン家関係者、貴族、聖職者など)がメキシコに移住したか一時的に避難したということが考えられる。
特に聖職者は、知識があり奥地に入り活動するのでプラントハンターとしてうってつけな職業だ。
これ以上の手がかりがないが、同時代で、名前にGがつくアンドリュー(Andrieux)は一人いる。フランスの劇作家・詩人・弁護士のFrançois-Guillaume-Jean-Stanislas Andrieux(1759‐1833)だ。
彼はフランス革命後ロベスピエールが主導する急進派のジャコバン党に属し最高裁の判事を務めたので、1794年の反対派クーデターの前にパリを脱出して田舎に逃げたこともある。晩年は科学アカデミーの教授として過し1833年に亡くなった。
“G・アンドリュー”は彼ではないだろうが、彼のようなキャリアをもつ人間のような気がする。この時代のフランスは(メキシコもそうだが)、命を守ろうとしたら逃げるか主義主張を明確にしてはいけない時代だった。
(写真)コメディフランスのロビーで彼の悲劇『ジュニアスブルータス』を読んでいるフランソア・アンドリュー(1759~1833)
「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」の代表的な園芸品種である“ライムライト(Limelight)”。その名前の“ライムライト(Limelight)”の意味は、電気がない時代に舞台で使われていた照明器具をさし、転じてスポットライトを浴びる“栄光”をも意味するようだが、まるで劇作家フランソア・アンドリューの舞台にあるようだ。
そして、激動期は、スポットライトを浴びる中心にいるとその組織とともに運命が左右されるが、「サルビア・メキシカーナ」のように周縁にいると逃げやすく生き延びやすいということを教えているのだろうか?
サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana )を発見したアンドリューの謎??
メキシコのサルビアの発見(といっても現地人ではなく西欧人によるが、)の記録は1829年から始まる。そして初期の頃は、採取したコレクター或いはプラントハンターの人物が良くわからない。
その一人にアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)がいる。
名前からフランス人と思われ1833年頃に活躍した人物としかわからない。
アンドリューは、1833年から1834年4月頃にメキシコ南西部及びサン・フェリッペ(カリフォルニア)でサルビア7種を採取している。この中で現在でも栽培されている有名な品種があり、それが「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」だ。
(写真)サルビア・メキシカーナの園芸品種“ライムライト”
「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」は、メキシコ中部の800-2000mの地域の森の端・ふちに生息し、“メキシカンセージ”とも呼ばれる。
同じ地域に生息する「サルビア・イエローマジェスティ」の場合は、森の中に入りちょっとした空白地での木洩れ日で大きく成長する生き方をするが、「サルビア・メキシカーナ」は、森の中に入っていかないので、森に守られない代わりに草丈をあまり大きくさせずに森の周辺で光りを吸収する草丈などを形成したのだろう。
庭に導入されたのは1970年代と遅く、バークレイにあるカルフォルニア大学の植物園のために、メキシコの中部にあるQuerétaro州から1978年に愛称ボブ(Robert Ornduff 1932-2000)によって持ち出されたという。
ボブは、カルフォルニア大学バークレー校で30年間も務め、学部長、大学付属植物園長などを務めたカルフォルニア植物相の権威でもあった。
推理?? “G・アンドリュー”
「サルビア・メキシカーナ」を採取したという“G・アンドリュー”はどういう人物なのだろうかということが気になる。
彼の名前が登場するのは、スイスの植物学者ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)の1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13に書かれている。
ドゥ・カンドールが死亡してから11年後に出版されているので奇異に思うだろうが、彼の息子が父の遺志を継ぎ残された原稿を編集出版したのでこうなった。
そこには、“1833年にメキシコで植物採取をしているが、アンドリュー自身は著作がない”と書かれているだけで、“G・アンドリュー”が何者かを引き継がなかったようだ。
こうなると関連するデータ、情報から推理をせざるを得ない。
“G・アンドリュー”は、ドゥ・カンドールと同世代か若い年代だと思われるので、時代背景を知るためにドゥ・カンドールの人物像から描いてみよう。
(写真)Augustin Pyramus De Candolle
ドゥ・カンドールは、リンネと並び称されてもよい植物学者だと思う。彼のオリジナルな考えである“自然との競争”はダーウィンに影響を及ぼし、また、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出した。
ドゥ・カンドールの家系は、フランス・プロヴァンス地方の旧家で16世紀後半の宗教的迫害でスイスに逃れた。フランス革命後の1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をする。
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。
この三人の関係だが、バラの絵師ルドゥーテを育てたのはレリティエールで、自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
レリティエールは、植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。もっともこのイギリス行きは、1789年に、友人から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。
ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。
フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后と三代の皇后に仕えることになる。
レリティエール暗殺後は、ルドゥーテが主導で1802年『ユリ図鑑』などのコピーをドゥ・カンドールが書くなど、当時のボタニカルアートとサイエンスの極みを体験することになる。
ドゥ・カンドールは、1816年にジュネーブに戻り大学で植物学を教えながら、植物分類の自然な体系の研究とその成果の著作に専念する一方で、植物園、博物館などの設立を行う。
さて、ドゥ・カンドールと“G・アンドリュー”との接点だが、G・アンドリュー”は、211種の新しい植物をメキシコで採取しているので素人の植物採取者ではなさそうだ。ドゥ・カンドールは、スイスの前に1806-1815年までモンペリエ大学の植物学教授だったので、“G・アンドリュー”とはフランスかスイスが接点になりそうだ。
そこで、“G・アンドリュー”が活躍した1830年前後のフランスとメキシコの状況を確認してみると、
ナポレオンが失脚した後に、フランス革命で斬首されたルイ16世の弟ルイ18世が王位につき1815年にブルボン朝が復活した。貴族や聖職者を優遇し言論の弾圧などの政策をとったので、市民革命といわれるフランス革命を推進したブルジョアと利害が衝突し、1830年7月に“7月革命”が起こりブルボン王朝は崩壊した。
一方のメキシコはといえば、コロンブス以降300年間スペインの支配下にあったが、ヨーロッパ大陸の争いが影響し、ナポレオンがイベリア半島に進攻し、兄のジョゼフをスペイン国王ホセ1世に据える。当然スペインの植民地もナポレオンの支配下となるがことはそう簡単ではなく、独立運動が中南米のスペイン植民地で起きた。
メキシコでは1810年にミゲル・イダルゴ神父が主導した独立革命がおき、ナポレオンが失脚するとスペインが盛り返したが1821年に独立を獲得した。
以後メキシコは、スペイン、フランス、アメリカ及びメキシコで生れた白人等との権力闘争・戦争が長く続くことになる。
“G・アンドリュー”の正体が明らかでないということは、本人が自分の正体を明らかにしたくないか、或いは、ドゥ・カンドールが明らかにしたくない何かがあったと考えると、一つの可能性として1830年7月に起きたフランスの7月革命で失脚した階層(ブルボン家関係者、貴族、聖職者など)がメキシコに移住したか一時的に避難したということが考えられる。
特に聖職者は、知識があり奥地に入り活動するのでプラントハンターとしてうってつけな職業だ。
これ以上の手がかりがないが、同時代で、名前にGがつくアンドリュー(Andrieux)は一人いる。フランスの劇作家・詩人・弁護士のFrançois-Guillaume-Jean-Stanislas Andrieux(1759‐1833)だ。
彼はフランス革命後ロベスピエールが主導する急進派のジャコバン党に属し最高裁の判事を務めたので、1794年の反対派クーデターの前にパリを脱出して田舎に逃げたこともある。晩年は科学アカデミーの教授として過し1833年に亡くなった。
“G・アンドリュー”は彼ではないだろうが、彼のようなキャリアをもつ人間のような気がする。この時代のフランスは(メキシコもそうだが)、命を守ろうとしたら逃げるか主義主張を明確にしてはいけない時代だった。
(写真)コメディフランスのロビーで彼の悲劇『ジュニアスブルータス』を読んでいるフランソア・アンドリュー(1759~1833)
「サルビア・メキシカーナ(Salvia mexicana)」の代表的な園芸品種である“ライムライト(Limelight)”。その名前の“ライムライト(Limelight)”の意味は、電気がない時代に舞台で使われていた照明器具をさし、転じてスポットライトを浴びる“栄光”をも意味するようだが、まるで劇作家フランソア・アンドリューの舞台にあるようだ。
そして、激動期は、スポットライトを浴びる中心にいるとその組織とともに運命が左右されるが、「サルビア・メキシカーナ」のように周縁にいると逃げやすく生き延びやすいということを教えているのだろうか?