No6:ロンドン園芸協会(王立園芸協会RHS)とプラントハンター
1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。
ハートウェグは、ドイツ人なのにロンドン園芸協会から中南米の植物相の研究で派遣され、コロンビア、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、カリフォルニアなどを探検し、多数の植物を採取した。キュー植物園のデータに登録されているだけで、1296種もあるので膨大な植物を採取したことは間違いない。
ロンドン園芸協会の誕生とプラントハンター
ハートウェグをプラントハンターとして契約したロンドン園芸協会は、1804年に誕生し、1861年には、ヴィクトリア女王の夫アルバート公により現在の名前の王立園芸協会(Royal Horticultural Society略称RHS)に発展し、王立キュー植物園、リンネ協会などとともに世界の植物情報をリードする立場をつくった。
この活動の最初は、1800年にウェジウッド創設者の息子で熱帯の果実に興味を持っているJohn Wedgwood(1766 -1844)によって提唱され、1804年3月7日、ロンドン、ピカでリーにあるハチャード書店に7人のメンバーが集まり設立会議が持たれた。
余談だが、1600年代の中頃にヨーロッパにコーヒーが伝わり、“覚醒”と“興奮”をもたらしたようだが、英国では“コーヒーハウス”、フランスでは“カフェ”から近代の様々なものが誕生した。そこには、新しもの好きの人々が集まるので、学会、ジャーナリズム、海運保険、さらにはフランス革命、民主主義までコーヒーハウス、カフェから誕生した。
しかし園芸協会はコーヒーハウスから誕生したわけではなく、1797年に開店したばかりの本屋、ハチャード書店で最初の会議が行われた。これは、コーヒーの輸入代金の支払いが多すぎたので、紅茶に転換させた英国の国策があり、1700年代後半にはコーヒーハウスが廃れていった現実が反映している。
園芸協会設立会議の出席者は、ウェジウッドが議長で、王室庭園の管理者フォーサイス(William Forsyth 1737–1804) 、ナーサリーの経営者ディクソン(James Dickson 1738-1822 ) 、王立協会の理事長で英国の科学技術の総帥バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820) 、バンクス卿の友人で古物研究家・熱帯植物の愛好家のグレヴィル(Charles Francis Greville 1749–1809)、 リンネの植物分類に異をとなえた植物学者ソールズベリー(Richard Anthony Salisbury 1761-1829)、 キュー植物園の園長を務めた父親が書いた植物図鑑『Hortus Kewensis』の第二版を後に出版したエイトン(Aiton ,William Townsend 1766–1849)の7人で、英国の庭園と園芸の促進を進める協会の設立を決議した。
後に、バンクス卿は文通相手で植物の栽培に科学的なアプローチを適用している地主のナイト(Thomas Andrew Knight 1759-1838)を設立メンバーに推薦したので8名がロンドン園芸協会の創立メンバーとなる。
30代から70歳に近いフォーサイスまで年代的にバラバラなメンバー構成だが、バンクス卿につながった人脈で構成されていて、世界は広いが事を決する人脈は狭いということを示している。1788年に設立されたリンネ協会も似たような人間が設立メンバーとなっているが、異色なのはリンネ方式を否定するソールズベリーが入っていることだろう。
(写真)Thomas Andrew Knight 1759-1838
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/e7/5ee186a37ece12d8b3f89561f309b856.jpg)
(出典)http://www.npg.org.uk/
この園芸協会の基盤を創ったのは、初代理事長ダートマス伯爵(George Legge, 3rd Earl of 1755 –1810)の死亡後、1811年から1838年まで理事長になった第二代の理事長ナイトの時期であり、1821年に志し高く実験的な庭園を作るためにチェスウィックにあるDuke of Devonshire'sの土地を借り、造園家として1823年にパクストン(Joseph Paxton1803-1865)を採用した。彼は後に巨大温室「クリスタルパレス」の設計者となる。(シリーズNo4に登場)
1833年には、今日「チェルシーフラワーショー」として知られる“花と野菜のショー”を開催し、優れた園芸品種を評価・表彰することを始めた。
園芸協会の活動の柱は、庭園と園芸の普及だが、海外の植物の調査研究と英国への導入も大きな目標となっている。1700年代中頃からは王立キュー植物園が海外にプラントハンターを派遣していたが、この中心にいたバンクス卿が死亡した1820年以降は活動が停滞し園芸協会及び園芸ブームで成長しているヴィーチ商会などのナーサリーがその肩代わりをするようになる。
園芸協会がプラントハンターを海外に派遣した始まりは、ナイトが理事長の時の1815年が最初だった。この頃はバンクス卿も健在なのでキュー植物園と共同の派遣のようで、その運営ノウハウを取得するには好都合だったのだろう。
派遣されたのは、東インド会社のお茶の管理官リーブス(John Reeves1774-1856)で、中国・広東で1817年から1830年までの間に700点以上ものキク、シャクヤク、ツバキなどが描かれた植物画を収集し園芸協会に送った。これは中国の植物画の最初の重要なコレクションであり西洋の科学に相当な影響を与えたという。
そして中国が開国する1842年にはフォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)を中国に派遣する。
中国以外では、1821年にドン(Don, George Jr. 1798-1856)をブラジル、西インド諸島、西アフリカのシエラレオネに、1824年ダグラス(Douglas,David 1798-1834)を北アメリカに、そして1836年にハートウェグがメキシコに派遣された。
このように、ロンドン園芸協会の生い立ちは、園芸好きな女性の姿の影も形もなく、男性それも貴族の趣味性が強く出ている。
1830年代にメキシコを探検したプラントハンターは3人いる。シリーズNo3のフランス人と思われるアンドリュー(Andrieux, G. 活躍した時期1833)、シリーズNo4のベルギーのリンデン(Linden, Jean Jules 1817-1898)とその仲間達。
そして、三番目がドイツ人のプラントハンター、ハートウェグ(Hartweg, Karl Theodor 1812-1871)だった。
ハートウェグは、ドイツ人なのにロンドン園芸協会から中南米の植物相の研究で派遣され、コロンビア、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、カリフォルニアなどを探検し、多数の植物を採取した。キュー植物園のデータに登録されているだけで、1296種もあるので膨大な植物を採取したことは間違いない。
ロンドン園芸協会の誕生とプラントハンター
ハートウェグをプラントハンターとして契約したロンドン園芸協会は、1804年に誕生し、1861年には、ヴィクトリア女王の夫アルバート公により現在の名前の王立園芸協会(Royal Horticultural Society略称RHS)に発展し、王立キュー植物園、リンネ協会などとともに世界の植物情報をリードする立場をつくった。
この活動の最初は、1800年にウェジウッド創設者の息子で熱帯の果実に興味を持っているJohn Wedgwood(1766 -1844)によって提唱され、1804年3月7日、ロンドン、ピカでリーにあるハチャード書店に7人のメンバーが集まり設立会議が持たれた。
余談だが、1600年代の中頃にヨーロッパにコーヒーが伝わり、“覚醒”と“興奮”をもたらしたようだが、英国では“コーヒーハウス”、フランスでは“カフェ”から近代の様々なものが誕生した。そこには、新しもの好きの人々が集まるので、学会、ジャーナリズム、海運保険、さらにはフランス革命、民主主義までコーヒーハウス、カフェから誕生した。
しかし園芸協会はコーヒーハウスから誕生したわけではなく、1797年に開店したばかりの本屋、ハチャード書店で最初の会議が行われた。これは、コーヒーの輸入代金の支払いが多すぎたので、紅茶に転換させた英国の国策があり、1700年代後半にはコーヒーハウスが廃れていった現実が反映している。
園芸協会設立会議の出席者は、ウェジウッドが議長で、王室庭園の管理者フォーサイス(William Forsyth 1737–1804) 、ナーサリーの経営者ディクソン(James Dickson 1738-1822 ) 、王立協会の理事長で英国の科学技術の総帥バンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820) 、バンクス卿の友人で古物研究家・熱帯植物の愛好家のグレヴィル(Charles Francis Greville 1749–1809)、 リンネの植物分類に異をとなえた植物学者ソールズベリー(Richard Anthony Salisbury 1761-1829)、 キュー植物園の園長を務めた父親が書いた植物図鑑『Hortus Kewensis』の第二版を後に出版したエイトン(Aiton ,William Townsend 1766–1849)の7人で、英国の庭園と園芸の促進を進める協会の設立を決議した。
後に、バンクス卿は文通相手で植物の栽培に科学的なアプローチを適用している地主のナイト(Thomas Andrew Knight 1759-1838)を設立メンバーに推薦したので8名がロンドン園芸協会の創立メンバーとなる。
30代から70歳に近いフォーサイスまで年代的にバラバラなメンバー構成だが、バンクス卿につながった人脈で構成されていて、世界は広いが事を決する人脈は狭いということを示している。1788年に設立されたリンネ協会も似たような人間が設立メンバーとなっているが、異色なのはリンネ方式を否定するソールズベリーが入っていることだろう。
(写真)Thomas Andrew Knight 1759-1838
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/e7/5ee186a37ece12d8b3f89561f309b856.jpg)
(出典)http://www.npg.org.uk/
この園芸協会の基盤を創ったのは、初代理事長ダートマス伯爵(George Legge, 3rd Earl of 1755 –1810)の死亡後、1811年から1838年まで理事長になった第二代の理事長ナイトの時期であり、1821年に志し高く実験的な庭園を作るためにチェスウィックにあるDuke of Devonshire'sの土地を借り、造園家として1823年にパクストン(Joseph Paxton1803-1865)を採用した。彼は後に巨大温室「クリスタルパレス」の設計者となる。(シリーズNo4に登場)
1833年には、今日「チェルシーフラワーショー」として知られる“花と野菜のショー”を開催し、優れた園芸品種を評価・表彰することを始めた。
園芸協会の活動の柱は、庭園と園芸の普及だが、海外の植物の調査研究と英国への導入も大きな目標となっている。1700年代中頃からは王立キュー植物園が海外にプラントハンターを派遣していたが、この中心にいたバンクス卿が死亡した1820年以降は活動が停滞し園芸協会及び園芸ブームで成長しているヴィーチ商会などのナーサリーがその肩代わりをするようになる。
園芸協会がプラントハンターを海外に派遣した始まりは、ナイトが理事長の時の1815年が最初だった。この頃はバンクス卿も健在なのでキュー植物園と共同の派遣のようで、その運営ノウハウを取得するには好都合だったのだろう。
派遣されたのは、東インド会社のお茶の管理官リーブス(John Reeves1774-1856)で、中国・広東で1817年から1830年までの間に700点以上ものキク、シャクヤク、ツバキなどが描かれた植物画を収集し園芸協会に送った。これは中国の植物画の最初の重要なコレクションであり西洋の科学に相当な影響を与えたという。
そして中国が開国する1842年にはフォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)を中国に派遣する。
中国以外では、1821年にドン(Don, George Jr. 1798-1856)をブラジル、西インド諸島、西アフリカのシエラレオネに、1824年ダグラス(Douglas,David 1798-1834)を北アメリカに、そして1836年にハートウェグがメキシコに派遣された。
このように、ロンドン園芸協会の生い立ちは、園芸好きな女性の姿の影も形もなく、男性それも貴族の趣味性が強く出ている。