No5: ラテンアメリカ・熱帯植物への関心の高まりと園芸の技術革新
中南米の植物相の魅力、つまり熱帯・亜熱帯性植物の魅力は、18世紀にはヨーロッパでも知られるようになっていたようだ。
(写真)ヒメヒマワリの花
「ヒマワリ」の場合は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込み、医師・植物学者・マドリッド植物園長で1571年出版の『新世界の薬草誌』で、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことで知られるニコラス・モナルデス(Nicholas Monardez 1493-1588)がヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van 1853-1890)がヒマワリの絵を描いたのは1888年頃であり、この頃にはヨーロッパにかなり広まっていた。
中南米の植物の魅力を広く知らしめたのは、「ダリア」と、シリーズNo2で触れた1799年から1804年に実施した「フンボルトのラテンアメリカ探検隊」だった。
「ダリア」の場合は、1801年からマドリッド王立植物園の園長を死亡する1804年まで務めたカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 – 1804)が、ダリアをヨーロッパで初めて開花させ、メキシコ・中南米の熱帯植物への関心を高めるに至った。
一方、フンボルトと一緒に旅行したフランス人の植物学者ボンブラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)は、彼自身が採取した60,000種に及ぶ植物標本と、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版しており、彼らが旅行したベネズエラ、コロンビア、ペルー、エクアドル。キューバ、そしてメキシコの植物相が1800年代の初めには知られるようになった。
19世紀の発明、巨大温室とウォードの箱
この熱帯植物の関心を寒冷地の英国・ベルギー・ドイツなどで現実に栽培できるようになったのは、産業革命の恩恵でもある“鉄”と“ガラス”と“スチーム”であった。産業革命以前は木枠の小さな温室しか出来なかったが、鉄とガラスで巨大温室がつくられるようになり、1800年代は、熱帯植物、“ラン”がブームとなる。
また一方で、室内でのシダ類などの観葉植物ブームもあったが、これは、産業革命で汚れた大気・スモッグというマイナスナ環境から生じたブームであり、小さなガラス箱で育てるなどが流行した。
このように、“鉄”と“ガラス”が巨大温室を可能とし、熱帯の植物・樹木が富の象徴として鑑賞の対象となった。
巨大温室の代表的な建築物は、庭師でもあり庭園設計家でもある英国のパクストン(Joseph Paxton1803-1865)によって設計された「クリスタルパレス(The Crystal Palace)」であり、1851年にロンドンで開催された第一回世界博覧会の会場Hyde Parkに建設された。
(写真)クリスタルパレス
(出典)
http://www.davidruiz.eu/photoblog/index.php?showimage=792
植物を採取するプラントハンターから見た場合にも大きなイノベーションがこの時期にあった。生きた植物を本国に送るのは大変だった。太陽と海水から甲板の植木箱を守るのが難しく、種子・球根・根などに頼らざるを得なかった。
1829年頃、英国の外科医師ナサニエル・バグショー・ウォード(Nathaniel Bagshaw Ward、1791-1868)は、蛾などのマユを保管していたボトルの中でシダの胞子が少量の肥料で発芽し成長していることを発見した。そこで木製のガラス容器を作り、その中でシダ類が育つことを確認し、この実験結果を発表した。
最初の航海での実験は1833年7月にオーストラリア、シドニー行きの船で行われた。
目的地についても容器の中の植物は元気であり、生きた植物を運搬する容器として使えることが検証された。
これを“ウオードの箱(Wardian case)”と呼び、これ以降の英国のプラントハンターにとって採取した植物の必携の運搬容器となった。特に1860年に日本に来た英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)は、発明者とは友人関係にあり率先して使っていて、足りない場合は、横浜の大工に“ウォードの箱”を作らせ採取した植物を梱包して送ったという。(その大工はこれをマネシタさんで活用したかどうかは定かではない?)
“ウォードの箱”は、プラントハンターの成果を飛躍的に高めただけでなく、スモックで汚れた英国の植物栽培・鑑賞でも、上流家庭での室内観葉植物の容器としておしゃれなデザイン開発がされ流行したという。(発明者のウォードは、これで特許をとり儲かったかも定かではない?)
(写真)“ウオードの箱(Wardian case)”
(出典)http://www.wardiancase.com/
1800年代の中頃までには、寒冷地でも熱帯植物を育てて鑑賞する施設、温室が出来上がり、また生きたままで運搬するウォードの箱が実用化され、世界の珍しい草花・樹木が英国などで育てられる基礎環境が整った。
後は、世界の珍しい植物を採取するプラントハンターとその費用を負担する目的なり意義が課題となるが、植物のファン・マニアが集まった園芸協会が重要な役割を担ったので、この歴史は次回に触れることとする。
中南米の植物相の魅力、つまり熱帯・亜熱帯性植物の魅力は、18世紀にはヨーロッパでも知られるようになっていたようだ。
(写真)ヒメヒマワリの花
「ヒマワリ」の場合は、コロンブス後のスペイン人が1510年頃スペインに持ち込み、医師・植物学者・マドリッド植物園長で1571年出版の『新世界の薬草誌』で、タバコは20以上の病気を治し空腹や渇きを軽減するとタバコ擁護論を展開し、タバコの普及に弾みをつけたことで知られるニコラス・モナルデス(Nicholas Monardez 1493-1588)がヒマワリの育ての親といわれているが、機密保持のガードが固くスペイン国外に持ち出されるには100年以上の時間がかかったといわれている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van 1853-1890)がヒマワリの絵を描いたのは1888年頃であり、この頃にはヨーロッパにかなり広まっていた。
中南米の植物の魅力を広く知らしめたのは、「ダリア」と、シリーズNo2で触れた1799年から1804年に実施した「フンボルトのラテンアメリカ探検隊」だった。
「ダリア」の場合は、1801年からマドリッド王立植物園の園長を死亡する1804年まで務めたカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 – 1804)が、ダリアをヨーロッパで初めて開花させ、メキシコ・中南米の熱帯植物への関心を高めるに至った。
一方、フンボルトと一緒に旅行したフランス人の植物学者ボンブラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)は、彼自身が採取した60,000種に及ぶ植物標本と、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版しており、彼らが旅行したベネズエラ、コロンビア、ペルー、エクアドル。キューバ、そしてメキシコの植物相が1800年代の初めには知られるようになった。
19世紀の発明、巨大温室とウォードの箱
この熱帯植物の関心を寒冷地の英国・ベルギー・ドイツなどで現実に栽培できるようになったのは、産業革命の恩恵でもある“鉄”と“ガラス”と“スチーム”であった。産業革命以前は木枠の小さな温室しか出来なかったが、鉄とガラスで巨大温室がつくられるようになり、1800年代は、熱帯植物、“ラン”がブームとなる。
また一方で、室内でのシダ類などの観葉植物ブームもあったが、これは、産業革命で汚れた大気・スモッグというマイナスナ環境から生じたブームであり、小さなガラス箱で育てるなどが流行した。
このように、“鉄”と“ガラス”が巨大温室を可能とし、熱帯の植物・樹木が富の象徴として鑑賞の対象となった。
巨大温室の代表的な建築物は、庭師でもあり庭園設計家でもある英国のパクストン(Joseph Paxton1803-1865)によって設計された「クリスタルパレス(The Crystal Palace)」であり、1851年にロンドンで開催された第一回世界博覧会の会場Hyde Parkに建設された。
(写真)クリスタルパレス
(出典)
http://www.davidruiz.eu/photoblog/index.php?showimage=792
植物を採取するプラントハンターから見た場合にも大きなイノベーションがこの時期にあった。生きた植物を本国に送るのは大変だった。太陽と海水から甲板の植木箱を守るのが難しく、種子・球根・根などに頼らざるを得なかった。
1829年頃、英国の外科医師ナサニエル・バグショー・ウォード(Nathaniel Bagshaw Ward、1791-1868)は、蛾などのマユを保管していたボトルの中でシダの胞子が少量の肥料で発芽し成長していることを発見した。そこで木製のガラス容器を作り、その中でシダ類が育つことを確認し、この実験結果を発表した。
最初の航海での実験は1833年7月にオーストラリア、シドニー行きの船で行われた。
目的地についても容器の中の植物は元気であり、生きた植物を運搬する容器として使えることが検証された。
これを“ウオードの箱(Wardian case)”と呼び、これ以降の英国のプラントハンターにとって採取した植物の必携の運搬容器となった。特に1860年に日本に来た英国のプラントハンター、ロバート・フォーチュン(Fortune、Robert 1812‐1880)は、発明者とは友人関係にあり率先して使っていて、足りない場合は、横浜の大工に“ウォードの箱”を作らせ採取した植物を梱包して送ったという。(その大工はこれをマネシタさんで活用したかどうかは定かではない?)
“ウォードの箱”は、プラントハンターの成果を飛躍的に高めただけでなく、スモックで汚れた英国の植物栽培・鑑賞でも、上流家庭での室内観葉植物の容器としておしゃれなデザイン開発がされ流行したという。(発明者のウォードは、これで特許をとり儲かったかも定かではない?)
(写真)“ウオードの箱(Wardian case)”
(出典)http://www.wardiancase.com/
1800年代の中頃までには、寒冷地でも熱帯植物を育てて鑑賞する施設、温室が出来上がり、また生きたままで運搬するウォードの箱が実用化され、世界の珍しい草花・樹木が英国などで育てられる基礎環境が整った。
後は、世界の珍しい植物を採取するプラントハンターとその費用を負担する目的なり意義が課題となるが、植物のファン・マニアが集まった園芸協会が重要な役割を担ったので、この歴史は次回に触れることとする。