時折 強い風と雨が横殴りに吹き付けます。
台風の目が上空を通過するかと思いましたが、
左側を50kmほどそれて、北上中です。
セージ類は避難させましたが、大型のもの、地植えのものは避難できず
強い風に相当いじめられており、午前中一杯はまだまだ続く模様です。
今日は、ハーブ関係は中止せざるを得ませんので、
書きかけ中の近代遺跡の復活です。
気分的にはちょっと異なりますが・・・・・
1974年4月20日から“端島”は無人になった。
外界から隔絶されたところでは、その環境に適合するために、
特異の進化をすることがある。
ダーウインの進化論で有名になった“ガラパゴス諸島”の生物は、
南米の種に近似するが、他の大陸から隔絶した島独特の進化をしていた。
生命起源と“端島”のビジネス的・生活的社会構造とはもともと異なるが
社会を形成し維持発展させようとする意思・意図をその社会の遺伝子とすると、
オープンな社会から隔絶された“端島”の社会の遺伝子は、
戦争という狂気の時期をはさみ、
産業革命後の勃興から衰退までのライフサイクルを
特異な進化を遂げ
短時間で駆け抜けていった。
そして、歴史から消えていった。
その遺物・遺産・化石が“軍艦島”である・・・と思う。
生活があった“端島”。
生活が消えてしまい入れ物・容器・殻だけが残ってしまった“軍艦島”。
“軍艦島”は恐ろしい。 そして 美しい。
これが実感だった。
長崎市高島町“端島”の広さは6.3haで、後楽園ドームのわずか1.35倍だ。
このスペースに、7~9階建ての高層アパートを林立させ、
炭鉱という一点で結びついた人々が、最盛期には5千人強が住んでいたという。
1960年には、日本一人口密度が高いところだったというから
人が働き・住む 極限のスペースのデザインの結果が“端島”そのものだとも言える。
労働は、海底深く。
休息は、空高く。高層住宅で。
島からの出口は、船だけ。
1980年代の後半に、“軍艦島”に上陸し調査した。
海上タクシーで船着場に着いたが、
もはや、船を寄せ付けない船着場となっており、外海の波の荒さとあいまって
上陸しにくい。
“軍艦島”を歩き
圧倒される存在感に、
目線は下を向きがちになり敗者のポーズとなる。
“常識”が破壊され、“美”も否定され、永続性がない“効率”のむなしさを感じた。
そこには、絵画、写真、漫画などでは感じられない、“生”“ナマ”“ライブ”があった。
“軍艦島”は、体感の芸術 インスタレーション(Installation art)そのものだ。
人間が見捨てていったモノ・コトが“軍艦島”であり、
入場禁止だが、バーチャルでなくリアルに、その現実を体感できる。
“軍艦島”には、“ハレ”の場がデザインされており、子供達にはプール、
大人には映画館だ。
茶色と灰色が多い廃墟の中で、映画館の外壁タイルはカラーだった。
なまめかしいときめきを感じ、唯一ホットした瞬間だった。
ここにも世俗があった。
安心を覚えた。
無人島は、ロビンソン・クルーソーの漂流記のように、生きることについての強烈な願望がある場所だと思うが、
“軍艦島”には、これが感じられない。
それよりも、人間の知識・技術などの驚異と脅威を感じる。
私達が創ったもの。そして、見捨てたもの。
その壊れていく強烈な恐怖感と美しさ。
そのミュージアムだと思う。
いまとなっては。
シリーズ参照
(軍艦島①)
(軍艦島②)
台風の目が上空を通過するかと思いましたが、
左側を50kmほどそれて、北上中です。
セージ類は避難させましたが、大型のもの、地植えのものは避難できず
強い風に相当いじめられており、午前中一杯はまだまだ続く模様です。
今日は、ハーブ関係は中止せざるを得ませんので、
書きかけ中の近代遺跡の復活です。
気分的にはちょっと異なりますが・・・・・
1974年4月20日から“端島”は無人になった。
外界から隔絶されたところでは、その環境に適合するために、
特異の進化をすることがある。
ダーウインの進化論で有名になった“ガラパゴス諸島”の生物は、
南米の種に近似するが、他の大陸から隔絶した島独特の進化をしていた。
生命起源と“端島”のビジネス的・生活的社会構造とはもともと異なるが
社会を形成し維持発展させようとする意思・意図をその社会の遺伝子とすると、
オープンな社会から隔絶された“端島”の社会の遺伝子は、
戦争という狂気の時期をはさみ、
産業革命後の勃興から衰退までのライフサイクルを
特異な進化を遂げ
短時間で駆け抜けていった。
そして、歴史から消えていった。
その遺物・遺産・化石が“軍艦島”である・・・と思う。
生活があった“端島”。
生活が消えてしまい入れ物・容器・殻だけが残ってしまった“軍艦島”。
“軍艦島”は恐ろしい。 そして 美しい。
これが実感だった。
長崎市高島町“端島”の広さは6.3haで、後楽園ドームのわずか1.35倍だ。
このスペースに、7~9階建ての高層アパートを林立させ、
炭鉱という一点で結びついた人々が、最盛期には5千人強が住んでいたという。
1960年には、日本一人口密度が高いところだったというから
人が働き・住む 極限のスペースのデザインの結果が“端島”そのものだとも言える。
労働は、海底深く。
休息は、空高く。高層住宅で。
島からの出口は、船だけ。
1980年代の後半に、“軍艦島”に上陸し調査した。
海上タクシーで船着場に着いたが、
もはや、船を寄せ付けない船着場となっており、外海の波の荒さとあいまって
上陸しにくい。
“軍艦島”を歩き
圧倒される存在感に、
目線は下を向きがちになり敗者のポーズとなる。
“常識”が破壊され、“美”も否定され、永続性がない“効率”のむなしさを感じた。
そこには、絵画、写真、漫画などでは感じられない、“生”“ナマ”“ライブ”があった。
“軍艦島”は、体感の芸術 インスタレーション(Installation art)そのものだ。
人間が見捨てていったモノ・コトが“軍艦島”であり、
入場禁止だが、バーチャルでなくリアルに、その現実を体感できる。
“軍艦島”には、“ハレ”の場がデザインされており、子供達にはプール、
大人には映画館だ。
茶色と灰色が多い廃墟の中で、映画館の外壁タイルはカラーだった。
なまめかしいときめきを感じ、唯一ホットした瞬間だった。
ここにも世俗があった。
安心を覚えた。
無人島は、ロビンソン・クルーソーの漂流記のように、生きることについての強烈な願望がある場所だと思うが、
“軍艦島”には、これが感じられない。
それよりも、人間の知識・技術などの驚異と脅威を感じる。
私達が創ったもの。そして、見捨てたもの。
その壊れていく強烈な恐怖感と美しさ。
そのミュージアムだと思う。
いまとなっては。
シリーズ参照
(軍艦島①)
(軍艦島②)
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