モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

オールドローズ、ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)の花

2015-10-22 20:40:35 | バラ
 (写真)Sophie's Perpetualの花


園芸店を物色していたがサルビア関係はこれといったものが無く、オールドローズが目に入ったので購入した。
バラは愛でるだけで手を出さないというのが信条だが1,2品はあっても良いかな!と思い購入したが、好みは、完璧に完成したタイプではなく日本及び中国のバラが片親になっている、バラ用語で言えば半つる性のシュラブローズでしかもオールドに近いものが良い。気高い一本立ちの華々しいハイブリッド・ティーローズにはそっと遠くから敬愛し、近づかないほうが身の安全かなと思っている。

ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)は、四季咲き性で、直径7cm程度のセミダブル、カップ型の花を咲かせる。花色は外側の花弁が濃いローズ色で、内側にいくほど白に近い淡いピンク色となる。
このグラデーションがピントが合わない鈍い色彩となり、たおやめで規律・秩序から解放された枝とその先に濃い緑色の葉とが一体となり、古臭いな~と思うほどの出自の古さをかもし出している。
まるで野にある雑草のような書き方だが、人間の手が入らないほど植物本来の姿かたちを維持していて価値を感じるが、なかなかそのような原種にはめぐり合えない。特にバラの場合は難しい。
このバラも、人間の手が入っているがその由来が面白い。

ソフィーズ・パーペチュアルの由来
このバラは、1905年以前にウイリアム ポール(William Paul 1822-1905)によって作出されたという。そのときの名前は、“Dresden China "と呼ばれたようだ。
 (写真)ウイリアム ポール(William Paul)


ちょっと脱線するが、William Paulの父Adam Paul(?-1847)は、フランスで迫害されたユグノー教徒で、スコットランドに脱出・移住し、そこからロンドンに来て1806年にCheshunt nurseryを購入した。
Adam Paulのように旧教徒国フランスの弾圧から脱出したユグノー教徒は50万人以上とも言われ、その当時のプロテスタントの国(イギリス、デンマーク、スウェーデン、オランダ、スイス)に移住し、ユグノー教徒が持つ園芸の技術がこれらの地域にも普及することに貢献したという。2015年の現代でもシリアから1000万人が脱出・移住したと言われるが、後世どういう評価がされるのだろうか?

本題に戻ると、William Paulは父のナーサリーに入り事業パートナーとなるが、かたわらで1841年に創刊された園芸誌“The Gardeners' Chronicle”に記事を書くライター家業もこなし、書き溜めた掲載原稿をまとめたら名著「The rose garden」が誕生し、1848年に第一版が出版された。
1847年に父Adam Paulが亡くなり、ナーサリーは、兄のGreorge PaulとWilliam Paulで引き継いだが、Williamは1860年に独立して自分のナーサリを創り、バラ栽培事業者としての名声を確立していく。
この兄と弟の両ナーサリーは、バラを始めとして新しい品種開発をして、栽培した園芸品種は、“Paul's品種名”として発表した。兄が作ったのか、弟のWilliam Paulが創ったか良く分からないものもあるようだ。

この“Dresden China "と呼ばれたバラは、その後行方が分からなくなり大分時間が経って意外なところから登場した。
再発見したのは英国サーフォークにあるLime Kilnガーデンに住むハンフリー・ブルック(Humphrey Brooke 1914-1988)で、作出されてから半世紀以上もたった1960年のことだった。

(写真)Thomas Humphrey Brooke ( 1914-1988 )


(出典)National Portrait Gallery, London

ハンフリーブルックの前に、Lime Kilnローズ・ガーデンの歴史を説明する必要がある。

 (写真)Lime Kiln Rose Garden


lime kilnは、もともとはサーフォークの古い農家の作業場であり、最後のロシア帝国の駐英大使の未亡人ソフィーベッケンドルフ伯爵夫人(Sophie Benckendorff 1855-1928)が夫の死亡後の翌年の1918年に購入し、レンガの壁に囲まれた中庭が作られ、バラ、イチイ、イトスギなどが植えられた。1928年の彼女の死により手入れがされずに荒れた庭になっていたが、1954年にこのlime kilnは、ソフィーの孫娘ナタリーが相続し、その夫Humphrey Brooke ( 1914‐1988 )とともに庭に手をかけて蘇るようになる。

ハンフリーブルックは、1946年にナタリー(Nathalie Benckendorff)と戦時下のウィーンで出会い、イングランドで結婚した。ハンフリーは、ヨークシャーのヨーロッパで2番目に古い羊毛業の家系で、1968年に王立美術院を退職し妻が相続したサフォークのLime Kilnでバラ栽培を始めた。
彼は、オールドローズを好み、栽培方法は独特で花柄を摘む以外は無駄な枝をカットすることも無く、肥料も水もあげないという自然のままに育てるということをやり、荒れ果てた庭園を蘇らせた。
彼の人生の終りまでに500以上のバラの種類を栽培し、そしてこの庭園を1971年に開放・公開して英国初のバラ園を作ったというから素晴らしい。
オックスフォード大学を優秀な成績で卒業した青年が、老年期にはバラ栽培の第一人者となる生き方も素晴らしい。しかも、常識を覆す栽培法にたどり着きオールドローズをこよなく愛したと言う。

“Dresden China " から “Sophie's Perpetual”へ
1960年にハンフリーブルックは妻が相続したLime Kilnの庭でオールドローズを発見した。
このバラは、1924年にソフィー伯爵夫人が、ジョージポールナーサリーから6種類のバラを購入し、その中に“ドレスデンチャイナ”というバラがあったという記録が残っていた。
“ドレスデンチャイナ”は、1922年までは流通していて、王立園芸協会の会報にジョージポールナーサリーの名前で商品紹介がされていたので、ソフィー伯爵夫人の記録は間違いがないだろう。
ポールのナーサリーで売っていたバラというところまではたどり着いたが、1905年に死亡したWilliam Paulが作出したというところまではたどり着かない。

ブルックは、“Dresden China " では1961年にフランスで作出された“Dresden"と誤解されやすく、また、陶磁器と間違えかねないので名前を変えることにした。
Lime Kilnの庭をデザインした妻の祖母Sophie Benckendorffの名前を付け栄誉をたたえることにし、“Sophie's Perpetual”として1972年に現存している園芸店のNotcuttから再デビューして今日に至る。
今では世界で愛されるバラとなり、華麗なハイブリッド・ティーのカウンターカルチャーとして存在感を持っている。

(写真)ドレスデン(Dresden)
 
(出典)ドレスデン(Dresden)

1988年ハンフリーブルックの死後、庭は荒廃し1990年代新しい所有者が元の状態に戻す努力をしたが完全に復旧していないという。

(写真)Sophie's Perpetualの花


ソフィーズ・パーペチュアル(Sophie's Perpetual)
・カテゴリー:オールドローズ 
・系統:ハイブリッド・チャイナ
・作出:1905年以前 英国、PAUL, WILLIAM (1822–1905)?
・花 :中輪、カップ形、四季咲き
・丈 :細い枝がシュラブ状に繁茂する、樹高は90㎝程度


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