モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

プレ・モダンローズの系譜 ⑤四季咲き性の取り込み

2009-01-06 09:15:41 | バラ

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。

1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。
そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだがこれらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」


フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のデュポン(Dupont)とバラの育種業者のデスメーだった。

デスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)は、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人口交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert)に全てを売り渡したという。そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)によって完成されたことになっている。彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のHPである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その一~二番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアルをつくる栄誉を得た。2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥ベルディエ(Victor Verdier)が作り出した。ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからないプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがある。このブル種のバラは、ヴィベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 。どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで“ハードウエアー”販売店(金物店?)を開店した。バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(写真)「フラウカール・ドルシュキ」の花2



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