モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

サルビア・ブレファロフィラ(Salvia blepharophylla)の花と採取者パーパス

2014-10-09 10:10:06 | セージ&サルビア
(写真)Salvia blepharophyllaの花
 

鮮やかなオレンジ色の花が咲いた。
サルビア・ブレファロフィラの背丈は最大で50cm程度と高くなく、サルビアには珍しく背筋がすっきりしている。明るい緑色の卵形の葉は、この花の名前の由来となっている“まつ毛のような細かい毛”が縁にかすかにある。
天衣無縫に成長するサルビアが多い中でコンパクトにまとまっているなかなかの一品だと思う。
地下茎で増えるので大き目の鉢に移植し、来年もこの花を楽しみたい。

採取したのはパーパス(Purpus, Carl(Karl) Albert)

コレクターはドイツからの移民、パーパス(Purpus, Carl(Karl) Albert 1851-1941)で、1911年にメキシコ、サンルイス・ポトシ(San Luis Potosí)でSalvia blepharophyllaを採取した。
こんな美しいサルビアが1911年まで採取されなかったのが不思議な気がするが、パーパスが採取した時期は、1910年から始まったメキシコ革命の最中という治安が非常に悪い時で、採取活動がやり難い時期だったみたいだからなおさら不思議だ。

パーパスは、サルビア属の宝庫とも言われるアメリカ南西部・メキシコで17,000種もの数多くの植物を採取している。しかし、サルビア属の植物は数少なく、記録上はこのSalvia blepharophyllaしか残されていない。何故なのだろうという疑問があり、関心がなければ“見れども見えず”状態だったのかなと思いつつもこの謎解きにパーパスの行動を追ってみたくなった。

(写真)パーパス(Purpus, Carl(Karl) Albert)
 
(出典)astrobase

パーパスは、ドイツのバーバリアにある王立森林の管理官の息子として生まれ、薬剤師を目指した。しかし、平々凡々とした生活を嫌い1887年に庭師としてセント・ペテルスブルグの植物園で働いていた彼の弟Joseph Anton Purpus (1860-1932)の海外出張とともにカナダ、アメリカ北西部の樹木探索で来訪し、そのままアメリカに移住し植物コレクターとしての道を歩む。パーパス37歳からの進路変更だった。

彼は、サンディエゴに住むキャサリン(Katharine Layne Curran 1844-1920)を紹介され、カリフォルニア大学とのネットワークが形成され植物コレクターとしての基盤が作られた。
キャサリンはカリフォルニア科学アカデミーの植物標本室の管理官(キューレーター)であり、1889年にはパーパスの植物採取の先輩であり、植物学の先生でもあり、スポンサーでもあったブランデギー(Brandegee, Townshend Stith 1843-1925)と結婚し妻となる

同じドイツ出身のブランデギー及び採取した植物を評価する役割としての奥さんとは長い付き合いとなるが、アメリカ移住当初はブランデギー夫妻からの恩恵が大であったが、植物コレクターとして成長したパーパスにとっては、メリットを分け与えてくれない最悪のスポンサーでもあった。

パーパスは1907年にカリフォルニア大学バークレー校の無給のコレークターとなり、せっせと植物を採取してはブランデギー夫妻に見本・サンプルとして献上し、これに注文が入るとセットとして販売し、パーパスの収入となるという学者の搾取構造に取り込まれたようだ。新奇の植物標本が次から次へと無料で手に入るブランデギー夫妻にとっては最高のシステムで、この搾取を甘んじたパーパスはどこか変な人間のようだ。
ブランデギー夫妻の名誉のために追加しておくと、パーパスのを含めて彼らが集めた植物標本はバークレー校に全て寄付したというので個人欲だけではないところがあり、名誉も経済的な利益もあまり手に入れなかったのはパーパスだけのようだ。

パーパスは偏屈で人嫌いといわれる。理由は現地語(英語、スペイン語)が得意ではなく、植物学に必要なラテン語か母国語のドイツ語だけになり、ドイツ語を話す人としか付き合わなかったようだ。また、酒・タバコはたしなまず、女性には近づきすらしないなどアンチ・エピキュリアンのところがある。彼にとっての快楽は37歳という歳から始まった植物採取の旅であったようだ。
植物学者としての栄誉を求めず、経済的な豊かさも求めず、家庭・家族という安寧も求めず、ただひたすら新しい植物との出会いがパーパスの心を満たしていたのだろう。

パーパスは90歳で亡くなるが、搾取されているとはいえブランデギーが収入の窓口であり、彼ら夫妻がなくなった後の約20年間は、自ら顧客開拓をやったようだ。
常に12セットをつくりアメリカ・ヨーロッパの顧客に植物標本を送った。アメリカでは、
カリフォルニア大学バークレー校、ハーバード大学・グレイ標本館・アーノルド樹木園、ニューヨーク植物園、セントルイスのミズリー植物園、シカゴの自然歴史ミュージアム、ワシントンの国立ミュージアムなどであり、プラントハンター・コレクター達を支えた著名なところだ。
ヨーロッパでは実弟(Joseph Anton Purpus 1860-1932)が勤めているドイツのダルムシュタット植物園に植物標本セットを送り、ここからヨーロッパの主要な例えば、ベルリン植物園、ブレーメン国際ミュージアム、エジンバラ王立植物園、キュー植物園の標本館、パリ自然歴史館、変わったところではライプツィヒの植物学会などがある。

この当時のヨーロッパでは、砂漠の植物でサボテンなどの多肉植物の人気が出て、実弟のいるダルムシュタット植物園には生きた植物を送り、ヨーロッパ随一のサボテン園を作ったという。残念なことに戦争で破壊され現存しない。
ブランデギーの要望、実弟を通じてのヨーロッパの顧客の要望は、この当時までに未踏破領域である砂漠・乾燥した高山などの植物・樹木であり、サルビアには顧客の関心がなかったようだ。売れないものは手元においておく以外ないが、集めないことになり関心から外れることになる。
サルビア・ブレファロフィラは後に賞をもらうほどの評価されたサルビアなので、パーパスの気持ちも動かし採取したとしか思えない。

リゾトモス(rhizotomos)、プラントハンター、プラントコレクターなどと呼び方は変われど、前人の未踏領域という限界を超えない限り成果を生み出せない危険な職業であることは変わらない。しかも、顧客のニーズに答えなければ好きなこともやり遂げられない。
ということではどんな職業でも同じで、苦と思うか思わないかの違いが天と地ほどの大差につながるのだろう。

(写真)Salvia blepharophyllaの葉
 

サルビア ブレファロフィラ
・シソ科アキギリ属の耐寒性がある多年草
・学名は、Salvia blepharophylla Brandegee ex Epling, (1939)、英名は Eyelash leaved sage(まつ毛のような葉のセージ)。命名者は二人で、Brandegee, Townshend Stith (1843-1925)、Epling, Carl Clawson (1894-1968)。
・原産地は、メキシコ北東部で、1911年にメキシコ、San Luis PotosiでCarl(Karl) Albert Purpus (1851-1941)によって採取された。
・草丈50cm程度で、地下茎で増える。
・葉は卵型でまつ毛のような毛で縁取られ、種小名のblepharophyllaはギリシャ語で“まつ毛のような縁取りのある葉”を意味する。
・開花期は夏から秋で、花が少ない夏場にオレンジが入った赤い花が次から次と咲く。
・咲き終わった枝を切り戻すと次から次へと咲くので重宝する。
・日のあたるところで育て、乾いたらたっぷりの水をあげる。

<命名者>
ブランデギー(Brandegee, Townshend Stith 1843—1925)
ベルリンで生まれアメリカに移住した植物学者。最初は測量技師として勤め趣味で採取した植物を当時のアメリカの植物学の権威Gray,Asa (1810‐1888)などに送った。この縁で“ハイデンの南西コロラド探検隊”の測量技師兼植物採取者として採用され、プラントコレクター・植物学者のコースを歩む。1889-1906年に12巻の「Plantae Mexican Purpusianae」を記述する。この元となる植物はパーパスが採取した。

(写真)Brandegee, Townshend Stith
 
(出典)The Smithsonian Institution Archives

エプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)
アメリカの植物学者・UCLAの教授でサルビア属が含まれるシソ科の権威。
エプリングの著名な研究で、覚醒効果があるサルビア・ディビィノラム(Salvia Divinorum)の研究がある。メキシコの原住民が神との交信でタバコを使っていたが、サルビア・ディビィノラムの葉もシャーマンによって使われていたという。


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