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賀状を書くときには、ゆっくりと墨を擦り、筆で手書きする。
どんなに忙し時でも、私は長年、そうしてきた。
筆で書くほどの腕を持っていたわけではなく、むしろ“下手”であるからこその、年に一度の「お習字」だった。
多いときには、千枚を超えたこともあったし、年中行事としては、苦痛になることさえあった。
だが昔から、宛名も文面も活字だけの賀状を貰ったときの味気なさを感じていた私にとって、自分の賀状は、当然、肉筆でなければなるまい。
下手でも何でも、年の暮れには、賀状を筆で書き、恥も承知で掻き続けてきた。
その私にとって、5年前の脳出血は、右手に知覚障害という後遺症を残してくれた。
印刷屋に頼むか、それとも、主義を通すか。年末になると、リハビリ中の右手を眺めながら、悩んだ。そこで考えたのは、電話の肉声年賀だった。
しかし、それも善し悪し、相手が不在であれば賀意は通じない。
そこで、今年は少し趣向を変えた。
新作の短い童話を、メールに添付してみたのだ。メールならば、何とか文字は打てる。そこで、出来る限り友人のメールアドレスを調べて“賀状”を送った。
送った童話は、何れも短編で、アイヌの民話を題材にした3種類だった。
ところが、その中の一つ「パナンペとペナンペの鬼退治」については、奇妙に賀状の返事が返って来た。何故かは判らない。
ちょっと、ご紹介しよう。
物語の荒筋を紹介すると、「パナンペとペナンペは二人ともよくオナラをする。鬼にさらわれたパナンペは、親鬼の留守の間に、“言葉どおりに受け取ることしかできない鬼の子たち”をダマして、鬼の宝ものをまんまと頂き、幼い子を除いて、首をちょん切って逃げる。親鬼に激しく追い掛けられるが、鬼の宝を逆利用して、最後には“よく効くオナラ”かませて、逃げおおせる。
それを知ったペナンペも鬼退治に出かけるが、宝ものは、もう残っておらず、危うく鬼に殺されかかるが、“よく効くオナラ”を連発し、ほうほうの体で逃げ帰る。鬼は残った幼い子と二人で“あんなクサイ人間なんか、もう食うのは止そうや”と夕日を見ながら話し合った」というスジガキだ。
だが、思いの外、様々な反応が返ってきた。これは童話の書き手にとって、今年初の収穫となりましたね。
NHKの同僚、Yさんは、「読みきかせしている声が聞こえてくるようです」と、短く、かつイメージ深く、受け取ってくださった。
同じくNHKの教え子の一人は「宮沢賢治のような、小気味いい文体。本当に、音にして読むとリズムが良いですね」・・・おいおい、ちょっとそれは言い過ぎじゃあないかね。賢治さんに申し訳ないよ。
親しい友達からは、素直な、そして嬉しい反応があった。
「おならの武器は子どもたちが喜びそうですね!アイヌにもこのようなお話があったのですか?たくさんの子どもたちの笑顔に繋がることを思い、その笑顔を見たい気持ちで一杯です。・・・いやいや、しっかり読んでくださって、ほんとうに有り難うございます。
中国で日本語を教えている友人からは、こんな反応が来た。
「パナンペがいろいろな道具を使って逃げるところなどは、『古事記』を連想しました。アイヌの物語にそういうものがあるのだとしたら、日本人の原体験にアイヌの文化が影響を与えているということでしょうか」・・・ううむ、古事記を連想しましたか。
同氏はさらに言う。
「二人だけになった鬼の親子はちょっと寂しそうです。私達も、自然界の動物からしたら「鬼」ですよね」・・・ああ、そうかも知れませんねエ。
昔の大学の仲間からは、こんな叱責もきた。
「鬼の子とは言え、鍋で煮てしまうのは残酷な気がします。
浜辺と森と山奥と川の位置関係に違和感があるように思います。
・・・ああ、いやいや、どうもどうも、困ったな・・・でも、彼は幼い孫に、いつも送った童話を読んでくれているんだね。だから、そう感じたのは無理もないさ。それに彼は、今も、立派なエンジニアだったのだな・・・。
・・・・・
・・・・
・・・
この童話添付の賀状は、期待以上の成果を揚げてくれました。
皆様 有り難うございます。
来年も、もっと新年にふさわしいモノを書いて、お送りいたしましょう。
賀状を書くときには、ゆっくりと墨を擦り、筆で手書きする。
どんなに忙し時でも、私は長年、そうしてきた。
筆で書くほどの腕を持っていたわけではなく、むしろ“下手”であるからこその、年に一度の「お習字」だった。
多いときには、千枚を超えたこともあったし、年中行事としては、苦痛になることさえあった。
だが昔から、宛名も文面も活字だけの賀状を貰ったときの味気なさを感じていた私にとって、自分の賀状は、当然、肉筆でなければなるまい。
下手でも何でも、年の暮れには、賀状を筆で書き、恥も承知で掻き続けてきた。
その私にとって、5年前の脳出血は、右手に知覚障害という後遺症を残してくれた。
印刷屋に頼むか、それとも、主義を通すか。年末になると、リハビリ中の右手を眺めながら、悩んだ。そこで考えたのは、電話の肉声年賀だった。
しかし、それも善し悪し、相手が不在であれば賀意は通じない。
そこで、今年は少し趣向を変えた。
新作の短い童話を、メールに添付してみたのだ。メールならば、何とか文字は打てる。そこで、出来る限り友人のメールアドレスを調べて“賀状”を送った。
送った童話は、何れも短編で、アイヌの民話を題材にした3種類だった。
ところが、その中の一つ「パナンペとペナンペの鬼退治」については、奇妙に賀状の返事が返って来た。何故かは判らない。
ちょっと、ご紹介しよう。
物語の荒筋を紹介すると、「パナンペとペナンペは二人ともよくオナラをする。鬼にさらわれたパナンペは、親鬼の留守の間に、“言葉どおりに受け取ることしかできない鬼の子たち”をダマして、鬼の宝ものをまんまと頂き、幼い子を除いて、首をちょん切って逃げる。親鬼に激しく追い掛けられるが、鬼の宝を逆利用して、最後には“よく効くオナラ”かませて、逃げおおせる。
それを知ったペナンペも鬼退治に出かけるが、宝ものは、もう残っておらず、危うく鬼に殺されかかるが、“よく効くオナラ”を連発し、ほうほうの体で逃げ帰る。鬼は残った幼い子と二人で“あんなクサイ人間なんか、もう食うのは止そうや”と夕日を見ながら話し合った」というスジガキだ。
だが、思いの外、様々な反応が返ってきた。これは童話の書き手にとって、今年初の収穫となりましたね。
NHKの同僚、Yさんは、「読みきかせしている声が聞こえてくるようです」と、短く、かつイメージ深く、受け取ってくださった。
同じくNHKの教え子の一人は「宮沢賢治のような、小気味いい文体。本当に、音にして読むとリズムが良いですね」・・・おいおい、ちょっとそれは言い過ぎじゃあないかね。賢治さんに申し訳ないよ。
親しい友達からは、素直な、そして嬉しい反応があった。
「おならの武器は子どもたちが喜びそうですね!アイヌにもこのようなお話があったのですか?たくさんの子どもたちの笑顔に繋がることを思い、その笑顔を見たい気持ちで一杯です。・・・いやいや、しっかり読んでくださって、ほんとうに有り難うございます。
中国で日本語を教えている友人からは、こんな反応が来た。
「パナンペがいろいろな道具を使って逃げるところなどは、『古事記』を連想しました。アイヌの物語にそういうものがあるのだとしたら、日本人の原体験にアイヌの文化が影響を与えているということでしょうか」・・・ううむ、古事記を連想しましたか。
同氏はさらに言う。
「二人だけになった鬼の親子はちょっと寂しそうです。私達も、自然界の動物からしたら「鬼」ですよね」・・・ああ、そうかも知れませんねエ。
昔の大学の仲間からは、こんな叱責もきた。
「鬼の子とは言え、鍋で煮てしまうのは残酷な気がします。
浜辺と森と山奥と川の位置関係に違和感があるように思います。
・・・ああ、いやいや、どうもどうも、困ったな・・・でも、彼は幼い孫に、いつも送った童話を読んでくれているんだね。だから、そう感じたのは無理もないさ。それに彼は、今も、立派なエンジニアだったのだな・・・。
・・・・・
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この童話添付の賀状は、期待以上の成果を揚げてくれました。
皆様 有り難うございます。
来年も、もっと新年にふさわしいモノを書いて、お送りいたしましょう。