天津ドーナツ

みんなで力を合わせて、天津の日本語教育を楽しく、元気にしましょう。ご意見・ご要望は左下の「メッセージ」からどうぞ。

「掃除のおじさん」…一番大切なことを大切にしてから、技能や知識の話をしましょう

2012-07-10 19:50:39 | 顧問・アドバイザーから
※フェイス総研 代表取締役社長 小倉 広のメールからの転載です。



◆ 掃除のおじさん ◆

毎朝、ランニングをしている。6~8kmを走り終わり、家路に着く途中、私

はいつも麻布十番の網代公園脇を通る。すると、決まっておじさんとおば

さんが二人で一所懸命に掃除をしている場面に出くわす。



私は、深々と頭を下げずにはいられない。なぜならば、二人は一切の手抜

きをせず、誠心誠意、私たちの公園をきれいにしてくれているからだ。



あんなにゴミが散らかっていた公園には空き缶一つ落ちていない。そして、

黒土の上に白い砂がまかれた地面には、ほうきの目がきれいについている。

二人はトイレに水をまき、ぴかぴかに磨き上げる。そして、私の挨拶に気

づくと、二人も深々と頭を下げてくれる。



私は思う。彼らはなぜ、あそこまで誠心誠意を尽くせるのだろうか?と。





彼らを監視している上司はいない。おそらく、掃除後のチェックも行われ

てはいないだろう。掃除の徹底度が評価される成果主義の給与があるわけ

でもなさそうだ。つまり、彼らには強制の力も、報酬の力も働いていない。

しかし、彼らは、決して手を抜くこともなく、一所懸命に汗を流し続ける

のだ。それはなぜなのだろうか?



おそらく、それは彼らの道徳心だ。人様のお役に立ちたい。人様に喜ばれ

たい。その一心だ。誰も見ていなくても、お天道様が見ている。自分の良

心がそれを見ている。それが理由だろう。





もちろん、規則やルールがないわけではない。受け持ちのエリア。掃除を

する時間帯。使用する道具。最低限のルールはあるだろう。しかし、ルー

ルが彼らを突き動かしているのではない。ルールに従うだけであれば、彼

らはあそこまでていねいにやる必要はない。いくらでも手抜きをできるの

だから。



そう考えたときに、次の疑問がわいてきた。では、彼らが道徳心を持ち、

発揮するに至ったのは何故だろうか?と。学校教育のお陰か?両親の育て

方が良かったのか? 良き上司先輩に恵まれ、よき教育を受けたからか?

はたまた彼、彼女自身の持って生まれた天分なのだろうか?



それはわからない。先にあげたもののうちのいくつかが当てはまる。そん

なところだろう。





そう思ったときに、気がついた。彼らのように心を込めて仕事をする人が、

一人でも多くなったなら、間違いなく会社は良い会社になるだろうな、と。



では、会社において、先に挙げたような施策はどれだけ実施されているだ

ろうか?道徳心あるものの採用。道徳心を育てる企業内教育。道徳心を発

揮する上司の教育。そう考えたとき、多くの企業においては、どれも心許

ないものであることに気がついた。



一番大切だとわかっているのに、そこに投資がされていない。道徳心を育

てるのは企業の責任ではなく、学校の責任である。家庭の責任である。企

業はそこまではタッチする必要はない。そんな声が、人事部や経営者から

聞こえてきそうだ。



本当にそうだろうか? 私は思う。



継続的に高い業績をあげ続ける企業では、業務上の知識や技術、すなわち

スキル教育以上に人間教育を徹底している。即効性は低いかもしれないが、

時間がかかるかもしれないが、一番大切なことを一番大切にしているのだ。

大切なことを疎かにして、大切なことがかなうはずはない。





私は道徳心を高める人材育成を一社でも多くの企業に導入してほしいと思

う。もし、それがかなわないのであるならば、我々リーダーや経営者がそ

の背中で従業員に語るという育成を続けていくほかはないだろう。研修プ

ログラムやコンサルティングを通じて。さらには、背中で語るリーダー育

成を通じて、企業のお役に立ち、それがひいては国のお役に立てるよう頑

張っていきたい。そのためには、私自身が背中で語れる人間になることだ。

修行の道のりは長い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、日本語学校の夏期講習(学生)や週末コース(企業の方)のトレーニングをしています。

さまざまな年齢や立場の学習者を相手にしていて、やはり思うのは、「挨拶・返事・表情・態度」などの基本がきちんとできている人は、日本語の上達も早いです。



それは、「日本語」がその人自身を表すものだったり、周囲の人とのコミュニケーションのツールである以上、当たり前のことなのかもしれません。



どんな立派な道具・技術だって、それを使う人次第で結果(周囲の人の受け取り方)が違ってくるのは当たり前なのですから。