天津ドーナツ

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まじめ・効率追求はいいことですか?

2012-09-18 19:38:42 | ドーナツの宝
最初に聞きたいのですが、日本語の「まじめ」は中国語の「认真」と同じでしょうか。



すくなくとも日本語の「言われたことをそのまま実行する=まじめ」は、物事の本質を見抜くためには役に立たないそうです。

また、「無駄・余裕・笑い」のない職場では、新しいアイデア・改善策が生まれることもありませんし、生産物の質を高めることもできません。そんなことをしているより、一つでも多く作ったほうがお金が増えるからです。

そして、人が受けるストレスの中で、「時間に追われる」ことによるストレスは、とても大きいのだそうです。

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私は、自分の授業は「アイデア勝負」だと思っています。

相手の人数・レベル・趣味・目的・性格・学習場所の環境・時間などの条件を元に、

その授業の最終目的地と、そこにたどり着くまでのストーリーを考えます。



それは、「○時間考えれば浮かんでくる」というものではありません。

あるときは30分も経たずに授業のストーリーが浮かんできますが、あるときには数日かけても「これだ!」というものが浮かんでこなかったりします。



そういうときには、仕方がありません。

買い物をしていても、ご飯を作っていても、頭の中は授業のことを考え続けています。

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ある人は、このような仕事の仕方を「まじめ・責任感がある」と言うかも知れませんし、私も(そうなのかな)と思っていました。

でも、「無駄がアイデアを生み出す」という心理実験の結果を知って、ようやく自分がしている意味が分かりました。



私は、「○時から○時まで」というように、時間で仕事を決められるのが大嫌いだったのです。

時間で労働を区切る、それは、自分がどんなものを生産しているのか、ということとは全く関係のないことだと、私は感じていたのだと思います。



そして、自分の働き方やエネルギーの使い方を時間に決められることが、どれぐらいのストレスになるのか、ということも感じていたのだと思います。



職人や研究者は、自分が納得するかどうかが仕事の基準ですし、それは時間で決められるものでありません。



また、私はときどき(いつも?)、ボーとしたり、フラフラ出歩いたりしていますが、それは、「頭の中に少し空間をつくっておくことが、新しいアイデアにつながる」(脳科学者)ということを、無意識に感じていたからだと思います。

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「先生はいつまでも子供みたい」と言われることもありますが、もし、時間に追われることに抵抗を感じなくなることが、大人になるということでしたら、私はたぶん、大人にはなれないでしょう。

自分の仕事を時間で区切られたり、無駄を省こうとして、新しいアイデアが浮かんでくるのを待つ時間がなくなったりするぐらいだったら、「子供みたい」「もっとまじめに仕事しなさい」と言われるほうがましだと思います。

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「先生の授業は遊びが多くて、効率が悪いと思う」と言われることもありますが、(ロボットみたいに語彙や文法を暗記するだけだったら、自分ひとりでやればいいのに)って思っていたりします。

(その日にやるべきことが終わったら、残りの時間は遊んだっていいんじゃないか)と思っていましたが、今は違います。

「その日にやるべきことが終わったら、残りの時間は遊んだり、無駄話をしたり、ボーっとしたり、散歩をしたりしなければいけない」のです。



時間で労働や勉強を区切ることに慣れると、次は時間に追われる生活をすることになります。

一切の無駄を省こうとすると、新しいアイデアや仕事・勉強の楽しさも失います。

だから、先生や上司に言われたことだけを実行するという「まじめなだけ」では、仕事も勉強も生活も、楽しくないだろうなと思うのです。

民主主義と数字の関係について ①…もとNHKアナウンサー塚越恒爾さんのブログから

2012-09-18 07:28:36 | 日本語学習法
二大政党の社会がある。
欧米民主主義の歴史的な基本パターンだという。
前回の選挙で、日本もそれに習い、追いつこうとした。
そっして見事に失敗した。
何のことはない、国会という対話の場を放棄して、密室の談合で国の有り様を決め始めた。
ごうごうたる非難の声が巻き起こった。
今度は、第三勢力が選挙の鍵なのだそうな。
随分、様変わりをしたもんだ。

だがここで、もう一度、この二大政党政治が、本当に民主主義の形なのかどうか、考えてみてはどうだ。
欧米がそうだから、そうに違いないと思いこんでいる側面がありはしないか。
私はこの考え方に、疑問を呈する。

二人の人間が応対すれば、対話して合意するか、自我と自我の対立となるか、どちらかだ。
今の複雑な社会。それに一億を超す人間。
合意を得るには時間が掛かる。
そこで、代議員を送り、国会を開く。
そう、国会議員とは国民の代弁者なのだ。
選挙の結果、議員の数が決まる。
最後には議員の数で決めようとなる。
数での勝ち負けは、初手から決まっている。
だから、少数派は精一杯抵抗する。
あがく。
多数派は、暫く我慢をしていれば、勝と解っている。
低姿勢で相手を刺激しないように応対する。

これは、日本だけの話ではない。
もっとも日本が典型的なだけだ。
一票差でも勝ちは勝ち、負けは負けだ。
多数決という数の論理は、実は民主主義の非常手段なのだ。
その非常手段が、常套手段だと思いこんでいる。

丁度良い機会だから、民主主義を人間の対話の場と捉えて、少し解説することにしよう。

順序として、“1”から始めて見る。
“1”の対話、即ち“独り言”だ。
私も、このところ独り言が多くなった。
TVを見ていて、つい怒る。
「馬鹿なことやってんじゃねえよ くだらねえな」
口調も、独り言だから下品になる。
チャンネルを変える。
「あれ、またコイツが出てる テレビの寄生虫め」
リモコンを押す。
「叫ぶなよ! おれはテレビの傍にいるんだぜ、全く」
またリモコンを押す。
「また食ってる。ああ、喋るのはよせっ!バカモン 汚えなあ」

独り言は罪がない。人畜無害だ。
でも、それを誰かに聞かれたら、独り言ではなくなる。
二人の対話ではないにしろ、1.5人の対話かなあ?

人が向き合って対話が生まれる。
だが、自我と自我の会話だ。
対話のチャンネルを線で表せば、二人の間を結ぶ一本の線が浮かぶ。
これが対話チャンネルだ。二人は一本の線の両端にいるのだ。
綱引きでも、棒押しでもやってくれ。
一本の線の上でね。