散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

元町百段

2008-11-03 22:10:37 | 散歩
開港~関東大震災、震災復興期~第二次世界大戦終戦、戦後~現在と3つの時期に建てられていた建物を関内、伊勢佐木町、山下町・中華街・元町、山手・本牧・根岸、野毛の5つの地域の地図に重ね合わせて、更にそれぞれの時期の建物について解説した横浜タイムトリップガイド(講談社)という本が最近出版されまして、買って読んでいた所、以前よりどこにあったのか気になっていた元町百段の記事を見つけたので早速、現地調査!
みなとみらい線元町・中華街駅で降りて元町通りを石川町方面に進み代官橋から代官坂へ向う角で左折。
坂を登る手前の右手に伸びる石段の先に元町百段公園はあります。
ちょっと地元の人だけが使うようなあまり人通りのない石段を登って行き、右手に見えて来る民家の隣に公園があります。
百段公園。元々は横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、大変眺望の良い所で、この場所には元町の鎮守厳島神社の末社の浅間神社があり、元町二丁目から急な石段が百一段あったが地元民は百段と読んで親しんでいた。
浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(1860年)に横浜の村人が元町へ立ち退いた時にいっしょに移されました。
百段は関東大震災で崩壊し、修復される事なく現在は公園となっています。
元町百段公園からの風景。
フェンスの先は草が覆い繁り、眼下はビルと首都高速の高架で決して良い眺望とは言えませんが、遠くにはみなとみらい地区が見えますので、夜景はそれなりに良いのではないかと思いますが、街灯らしきものは見当たらずあまり夜には来たくない感じです。
ここから夜景を眺めた人の感想を聞きたい所です。
おそらく当時は元町から堀川を挟んで外国人居留地、その先の神奈川の台や神奈川湊を一望できたのではないかと思います。
下の画像は左が公園入口にタイル印刷されていた当時の前田橋から撮影した元町百段で右は現在の前田橋から撮影した画像です。(昔の画像に合わせてトリミングしています)

崖の高さとほとんど変わらないビルが前に立っています。
ただ、今も昔もそれなりに人通りはあったようですね
ついでと言ってはなんですが、元町百段だけを確認して帰るのも芸がないので、本の中に記載されていた代官坂の途中にある『名主「石川氏」邸』と宮崎生花店に寄ってみる事にしました。
名主「石川氏」邸。
幕末開港前後の横浜村名主石川徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食料、その他の設備一切を掌ったそうです。嘉永7年(1854)3月9日(4月6日)ペリーが横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを視察したおりや敷きを訪れ、徳右衛門が供応した様子が『ペルリ提督日本遠征記』にするされているそうです。
代官坂は元々は箕輪坂と呼ばれていたそうですが、横浜村名主石川徳右衛門がこの地に居住していたことから代官坂と呼ばれるようになったそうです。
宮崎生花店。
明治6年(1873)開業の横浜で最も古い洋花店のひとつ。

日本パブテスト発祥之地碑。名主石川氏宅の向かい側の草に覆われた所で見つけました。
明治7年(1874)、山手75番地にパブテスト自由伝道協会のネーサン・ブラウンが教会堂を建て布教の拠点としましたが、火災で焼失しその後、明治27年(1894)ベンネットが横浜第1パブテスト教会と称し、教会堂を坂の途中(現在の元町2丁目80番地)に移転しました。大正12年(1923)寿町に移転し跡地に記念碑を建立。
ウチキパン
http://www.uchikipan.com/
居留地(山下町)でロバート・クラークが経営していた文久2年(1862)開業のヨコハマベーカリーで修行した打木彦太郎が明治21年(1888)に元町1-50に開業。
明治32年(1873)にヨコハマベーカリー宇千喜店と屋号を改名。
かなり人気のお店です。
横浜は開港以来、関東大震災や第二次世界大戦と二度の壊滅的な状態から復興して来ており、歴史的な建造物は少ないですが、(ほとんど近代以降)そのような中、残されているものは出来るだけ実際に訪れてブログで紹介したいと思います。
コメント
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