昨日は「郷土史学習会」の忘年会でした。いつものように二次会・三次会まで騒いで帰り、今日はゆっくりお休みの日です。
東京から帰った私は江戸の南部藩邸がどんな所であったかを考えています。先ずは私自身の勉強のために「参勤交代の制度」から確かめて見たいと思います。
江戸の参勤交代 |

当初は幕府に対する臣従の証拠として自主的に肉親を人質として江戸城に提出し、家族対面と将軍に挨拶をするために江戸に赴いたのが始まりといわれる。
寛永12年(1635)外様大名への義務づけ(武家諸法度により制度化)
寛永19年(1642)譜代大名への義務つけ
参勤交代のもたらした結果
宿場の整備、輸送・交通手段の整備、街道の発達 |
産業振興、消費経済の発展 |
情報の流通、文化の交流 |
大名の経済力の弱体化* |
参勤前の手続き
参勤伺い 国許より使者を立て書状を江戸留守居役が同行して提出 |
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老中 奉書にて参勤時期の指示 |
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国許 江戸へお礼の使者 |
参勤後の手続き
老中まで江戸到着を報告 |
老中の使者が江戸藩邸を訪問 |
後日老中より登城を命ずる奉書が来る |
登城し将軍に拝謁する 同時に献上物を差し出す |
大名行列
行列の規模は大名の禄高や家格に応じて決められた。 最大藩の加賀前田家は2000人~4000人といわれている。 |
体面を重んじる武家としてその内容は派手になったと見え、慶安元年(1648)以降幕府はたびたび華美を控え人数を削減するよう発令している。 |
行列が隊列を整えるのは国許を出るとき、江戸にはいるとき、宿場の前後など要所だけであった。行程が一日延びるだけでもその費用はバカにならず、かなり強行軍だったらしい。とても全行程をあのような行列模様では目的地に着けない。 |
盛岡藩二代藩主「重直公」は江戸で生まれ大きくなるまで江戸で育ち、そして盛岡の殿様になられました。盛岡に住むようになってからの「重直公」は盛岡の田舎暮らしが耐えられず我が儘な暮らしをし、お諫め申し上げる家老を何人もくびにしたという話も伝わっています。
江戸に一年おきに住まわれた盛岡藩主様と江戸に住み続けた奥様はどのように暮らされ、その子どもたちはどのように育つのでしょうか。「南部重直公」を評する文章を見るたびに参勤交代とはと考えさせられ、「重直公」が幼少を過ごした江戸の盛岡藩邸が気になっていました。
江戸の盛岡藩邸は三つありました。上屋敷は外桜田にあり、「重直公」はそこで育ったようです。麻布にある盛岡藩邸は下屋敷で今は有栖川宮記念公園となっています。「重直公」が育った上屋敷の外桜田の場所は私は特定出来ません。どなたかご存じの方はお知らせ下さい。
江戸時代の有力な大名が持っていた藩邸は以下のようでした。
上屋敷
上屋敷は江戸藩邸のうち、大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷である。大名が居住するため居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、しばしば登城する必要があったため、通常は最も江戸城に近い屋敷が上屋敷となった。
大名が在府の際はここで政務を取り、大名が帰国した後は江戸留守居役が留守を預かり、幕府や本国との連絡役を務めた。
上屋敷の構成は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられる。
御殿空間は大名の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などであり、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成された。
中屋敷
中屋敷は上屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した大名や成人した跡継ぎの屋敷とされた。下屋敷と比較した場合、江戸城までの距離は近く、規模は小さいことが多い。
中屋敷や下屋敷にも長屋が設けられ、参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣が居住した。
下屋敷
下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際には大名が避難したり、復興までの仮屋敷として使用された。
藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する場として、遊行や散策のために作られた大名庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった。
「有栖川宮記念公園」 関する次のようなHP(BLOG)を見つけました。
有栖川公園は、正式な名称を「有栖川の宮記念公園」と云います。
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![]() 有栖川宮記念公園の表札? 左側から書かれている事が昭和初期 に作られた事を物語っています。 |
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明暦2年(1656年)芸州浅野家の分家播州赤穂の浅野匠守麻布下屋敷と当時赤坂にあった、南部盛岡藩20万石の下屋敷を相対替(等価交換)することになります。 当初の南部盛岡藩下屋敷は赤坂氷川神社付近(現在の赤坂二丁目)にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼んでいた様です。しかし、相対替(等価交換)で浅野は赤坂へ、南部盛岡藩は麻布へ用地替えになりましたのが、相対替をした後も赤坂の南部坂はそのまま名称が残っていました。
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時の有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、自ら志願して東征大総督となった江戸城に入ったと云われています。 このため、有栖川の宮家は廃絶となってしまいますが、大正天皇は名家廃絶を憂ひ惜しみ、第三皇子光宮宣仁親王に有栖川の宮家の旧名称である高松宮を名乗らせて祭祁を継がせています。因みに、高松宮様は昭和天皇の弟宮ですし、高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母親は、有栖川宮家出身と云う血縁関係にあります。 | |
昭和9年1月5日、お屋敷跡は高松宮宣仁親王より東京市に下賜され、同年2月に工事が始まり11月に完成して、有栖川の宮記念公園として一般に公開されました。
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私が子供の頃は、火薬庫と同様に此処も遊び場の1つで「スルメイカ」と凧糸で”アメリカザリガニ”を取って一日遊んでいました。 また、ウシガエルのオタマジャクシも沢山いましたが現在では・・・・・? | |
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久々に、晩秋昼下がり散歩がてらに・・・有栖川宮公園に行ってきました。 以前は、園内の池の周りに「釣り禁止」の札が立てられていましたが、全く無視されて釣り糸を垂れる人々に”呆れた”のか、上の様な2種類の警告に変わっていました。 しかし、池で釣りをしている大人の多いのには、今更ながら”呆れかえります”・・・・ |