誰でも知ってるライト兄弟だけど
自転車屋を営んでいたから 二基のプロペラを左右 逆回転させることでトルクを打ち消す事に気が付いたのだろうね
それとチェーン駆動も自転車からの応用だし 旋回には、なんと主翼を捻じるといった方法を採用してる
エンジンは12馬力で 現代ではバイクより出力は劣る ささやかな物だったし
初飛行の観客は5人ほどだった

右がオーヴィル
だがこの成功で話しが終るのが 歴史の
勉強だったよね
この後ライト兄弟はどうなったか?
知りたくないですか?
今はワシントン国立博物館に展示されているライトフライヤー号
実は展示されたのは(1948) 昭和23年 からだって事なのです
兄弟が人類史上 初飛行に成功したのが
1903年なのですから 45年間の空白が
有ります
其の間は何処にあったのかと言うと
何と海の向こうのイギリス科学博物館に展示されていました

ウィルバーライト(1867~1912)

オーヴィルライト(1871~1948)
当時のスミソニアン協会にラングレー教授がいました 教授は政府からも資金を出させて飛行機の発明を研究していて ライト兄弟にも知恵を借りエアロドロームと言う飛行機を製作し実験飛行をしましたが 浮上出来ず川に落ちて
失敗しました 大恥をかいたのです
恥をかいたラングレーの後をついだのがチャールズ ウォルコットで
彼はスミソニアン博物館にはライトフライヤー号の展示はもとより航空誌にも記す事はなかったのです いわゆる
悪人です
更に悪人がやって来ます もう一人の役者の名前はグレンカーチス
彼はエンジン製作や航空会社を持っていて自身もパイロットとしては有名で
技術面では優秀な面がありました
この二人が組めば やる事はひとつ
先に失敗したエアロドローム号に改造を加えライト兄弟より早く飛行に成功したとすれば良いといったことでした
エアロドロームは再飛行に成功したのはライト兄弟より後でしたが
宣伝などで一部の国民は初飛行だと信じた人もいたようです
卑怯なのはこの後 改造した部品など35品を取り外しスミソニアンに展示した事ですね
兄のウィルバー ライトが亡くなり弟の
オーヴィルが抗議しても駄目でした
再飛行実験に対する調査の要請も無視されて居た頃
イギリス科学博物館からライトフライヤー号の展示要請がありました
オーヴィルは申し込みを受諾しライトフライヤーはイギリスに渡ったのです
以来、ライト兄弟の功績は風前の灯火でしたが
偶然か必然かアメリカ人観光客がイギリス科学博物館のライトフライヤー号を見て (why?)ナンデ ココニ アリマスカ?フライヤーが
てな事でしょう アメリカ国内でも話題になり始めましたら 慌てたのがスミソニアン協会のアボット会長でした
アボットは無視する事が出来ずオーヴィルと面談してフライヤー号をアメリカに戻し 事を穏便に済まそうとしましたが、出来ませんでした
1914年のエアロドロームの実験を否定し最後はライト兄弟に陳謝した
其の後は第二次世界大戦がありライトフライヤー号がワシントン国立博物館に戻り公開されたのが1948年12月17日なのでした
弟のオーヴィルが亡くなったのが
1948年1月30日
ライトフライヤーをアメリカで見る事は叶いませんでした
まったく洒落にならない話ですね。
自転車屋を営んでいたから 二基のプロペラを左右 逆回転させることでトルクを打ち消す事に気が付いたのだろうね
それとチェーン駆動も自転車からの応用だし 旋回には、なんと主翼を捻じるといった方法を採用してる
エンジンは12馬力で 現代ではバイクより出力は劣る ささやかな物だったし
初飛行の観客は5人ほどだった

右がオーヴィル
だがこの成功で話しが終るのが 歴史の
勉強だったよね
この後ライト兄弟はどうなったか?
知りたくないですか?
今はワシントン国立博物館に展示されているライトフライヤー号
実は展示されたのは(1948) 昭和23年 からだって事なのです
兄弟が人類史上 初飛行に成功したのが
1903年なのですから 45年間の空白が
有ります
其の間は何処にあったのかと言うと
何と海の向こうのイギリス科学博物館に展示されていました

ウィルバーライト(1867~1912)

オーヴィルライト(1871~1948)
当時のスミソニアン協会にラングレー教授がいました 教授は政府からも資金を出させて飛行機の発明を研究していて ライト兄弟にも知恵を借りエアロドロームと言う飛行機を製作し実験飛行をしましたが 浮上出来ず川に落ちて
失敗しました 大恥をかいたのです
恥をかいたラングレーの後をついだのがチャールズ ウォルコットで
彼はスミソニアン博物館にはライトフライヤー号の展示はもとより航空誌にも記す事はなかったのです いわゆる
悪人です
更に悪人がやって来ます もう一人の役者の名前はグレンカーチス
彼はエンジン製作や航空会社を持っていて自身もパイロットとしては有名で
技術面では優秀な面がありました
この二人が組めば やる事はひとつ
先に失敗したエアロドローム号に改造を加えライト兄弟より早く飛行に成功したとすれば良いといったことでした
エアロドロームは再飛行に成功したのはライト兄弟より後でしたが
宣伝などで一部の国民は初飛行だと信じた人もいたようです
卑怯なのはこの後 改造した部品など35品を取り外しスミソニアンに展示した事ですね
兄のウィルバー ライトが亡くなり弟の
オーヴィルが抗議しても駄目でした
再飛行実験に対する調査の要請も無視されて居た頃
イギリス科学博物館からライトフライヤー号の展示要請がありました
オーヴィルは申し込みを受諾しライトフライヤーはイギリスに渡ったのです
以来、ライト兄弟の功績は風前の灯火でしたが
偶然か必然かアメリカ人観光客がイギリス科学博物館のライトフライヤー号を見て (why?)ナンデ ココニ アリマスカ?フライヤーが
てな事でしょう アメリカ国内でも話題になり始めましたら 慌てたのがスミソニアン協会のアボット会長でした
アボットは無視する事が出来ずオーヴィルと面談してフライヤー号をアメリカに戻し 事を穏便に済まそうとしましたが、出来ませんでした
1914年のエアロドロームの実験を否定し最後はライト兄弟に陳謝した
其の後は第二次世界大戦がありライトフライヤー号がワシントン国立博物館に戻り公開されたのが1948年12月17日なのでした
弟のオーヴィルが亡くなったのが
1948年1月30日
ライトフライヤーをアメリカで見る事は叶いませんでした
まったく洒落にならない話ですね。