7月11日 朝6時頃、車で家を出発 7時過ぎに伊丹(大阪空港)に到着
大阪の空は曇天
空港内のスタバでサンドイッチ&珈琲を頂いたのですが・・・
う~ん どちらも物凄く苦手な味で・・・サンドイッチは我慢して食べましたが珈琲は、ほどんど捨ててしまいました
9時45分発のANAに乗って11時55分に沖縄に到着 あれっ!? 晴れてる!? やった~っ! (と、ぬか喜び)
長い列に並んでレンタカー店まで運んでくれるシャトルバスに乗りました (バスで10~15分の移動)
オリックスレンタカーで借りた車は、ハイブリット車です
レンタカーを借りる人って物凄く多いですね もぅ中々借りれなくて1時半頃やっと車に乗れました
まだ7000km程しか走っていない新車でしたよ 気温28℃ 沖縄の方が関西より涼しい!
この前、TVで沖縄のマグロは冷凍されていないから美味しいと言ってたので カーナビで回転寿司を検索
レンタカー店の人がそれを見て「やざえもんが美味しいですよ」と教えて下さったので初めの行先は「やざえもん」へGO
到着したら何と!イオン那覇店の中に有りました 沖縄に着いて いきなりイオンですか(笑)
2時頃に遅めのランチを頂きました 美味しかったです
食事の後は「旧海軍司令壕」と言う所へ行きました
空港に到着時は晴れていましたが徐々に雲行きが怪しくなってきました~ まだ台風の影響が色濃く残っていて時々強い風も吹き雨も降りだしました
旧海軍司令部内から出た遺品 やかんや水筒、薬ビンなどがあります
日本軍の銃器と手製の槍
昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われて います。
カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていました。
戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました
壕入口階段 105段、30mほどの階段を降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続きます
通路も部屋も、とても狭いです
壕内は、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっています
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幕僚室
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司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っています。
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医療室 この部屋を中心に多くの負傷兵がいたと言う事です
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このつるはしで壕は掘られました
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下士官兵員室
玉砕の近い6月ごろ、この部屋は立錐の余地もない程 兵士たちが入り、立ったままで睡眠や休息を取ったといわれています
兵士たちのほとんどは、武器らしい武器もなく この出口から出撃、大半は二度と帰ってきませんでした と書かれています
忘れられない二十世紀の爪痕ですね・・・
以下4枚息子が撮影
司令官室の壁面に残された 「大君の御はたもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」 大田司令官の愛唱歌
高台に有る旧海軍司令壕から望んだ海 大きな白波が立っていますね 時折、風雨が強くなりました
12日に予定していた慶良間島への海水浴ツアーは、到着時に電話が有り中止となってしまいました
一番の目的だったので残念無念
台風が恨めしい限りです
この後、ひめゆりの塔へ向かいました
続きは次回にします