この映画は名前だけは知っていたので、先日、BSで放映されていたのを機会に見てみました。あらすじを例によって貼り付けます。
サイモン(ブルース・デイヴィソン)の大学は、目下ストライキ中だ。学校当局が、近所の貧しい子供たちの遊び場になっている土地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとしたのが、そもそもの始まりだった。これに社会不安、政治状況がからみあって、騒ぎは深刻の度を加えていった。
サイモンはボート部員で、学校友だちのチャーリー(ダニー・ゴールドマン)と同居していたが、ある日、見物がてら警備線の張りめぐらされた、構内に入って行った。チェックを受けて本館に入ると、内は占拠学生で賑わっていた。総長室で用を足すカップル、天井から入り込むベントン博士(イスラエル・ホロヴィッツ)、オルガナイザーのエリオット(ボブ・バラバン)、議長役の学生(ジェームズ・クーネン)、など、サイモンの好奇心を刺激してやまなかった。
そこで、偶然、校門のところで魅かれた女の子に出会った。彼女はリンダ(キム・ダービー)といい、女性解放委員をしていた。リンダと知り合ってから、サイモンは積極的に闘争に参加するようになり、舵手のエリオット(バッド・コート)を、籠城組にひき入れてしまった。しかし、リンダには、闘争に対するサイモンの態度が気に入らず、またボーイフレンドのいる身で、いつもサイモンと一緒にいることにもたえられず、彼から去って行ってしまった。
リンダのいなくなった籠城生活は、サイモンにとって、バラ色の光を失ってしまったが、反対にゲバルト闘争に対する本質的な眼が開きはじめた。そして、右翼のボート部員ジョージ(マーレイ・マークロード)に殴られたことから、急速に、運動の渦中へ入っていった。その彼の意識の高揚を待ち受けていたかのように、リンダが彼のところへ戻って来た。彼女と同じ目的のため、手をたずさえて行動することに、彼ははじめて、すがすがしい生き甲斐のようなものを感じた。
時が経つにつれて、当局の腐敗が暴露され、学生の怒りは、奔流となってあふれ出した。ついに、当局は実力行使を決定。武装警官隊は州兵の応援を得て、バリケードを破り、屋内に突入して来た。講堂に数百名の学生たちが集結していた。侵入者たちは、大義名分を盾に、暴力をふるい、襲いかかった。学生たちは、学内いっぱいに波紋のような輪をつくり、怒りをころして抗議をつづけていた。
しかし、棍棒はようしゃなく振りおろされ、輪はたちまち寸断されてしまった。学生たちは、次々に排除され、サイモンとリンダもその中にいた。2人は、たがいにかばい合い、権力の暴力に抵抗した。棍棒がリンダの顔を鮮血で染めた。サイモンは純粋な怒りをもって、警官に躍りかかっていった。だがやがて、学生の反抗は、圧倒的な武力の前に鎮圧されてしまった。しかし、いま、沈黙をよぎなくされた、これら若き怒りたちは、明日の反乱の日を求めるかのように、学内を彷徨い続けていた。
1968年4月のコロンビア大学の学園紛争の参加したジェームズ・クーネンの原作によるもので、彼自身上記のように議長役として出演している70年の映画です。76年にまだ荒井由実だったユーミンが“「いちご白書」をもう一度”という曲を作っていて、おじさんが遠い目をしてカラオケで歌っているのを聴いた人もいるでしょう。……こうやって年代を挙げていくだけで、団塊の世代だぁぁって感じですね。英語で言うとベビーブーマー、フランス語ではアプレ・ゲール(ウソだけどw)。引用させてもらいながら言うのもなんですけど、“あらすじ”にしても、ゲバルト闘争、権力の暴力、純粋な怒りととっても濃いっていうか、中島みゆきのような暑苦しさがw。シュプレヒコールの波♪なんてね。
でも、この映画は実際に見るとかなりバラバラな印象を受けます。なんかおもしろいことないかな的ないい加減なサイモンがミニスカのむちむちしたリンダとなかよくしたいから、学生運動に巻き込まれちゃった青春グラフティのようなところとゲバラや毛沢東のおっきなポスターがことさらしく画面に出てきて権力の欺瞞と闘う学生の姿をルポルタージュしてみましたみたいなところが混ぜ混ぜです。“民主的なお話し合い”で作ると往々にしてこうなるんですけど。
それでこの映画の題名の「いちご白書」なんですが、オリジナルは“The Strawberry Statement”で、学長が学生たちに向かって「君たちはいちごだ。甘くて赤い(つまり共産主義者)」と演説したのに由来しています。ひねくれ者の私としては、学長さんうまいこと言うじゃんって感心しちゃいましたw。世間知らずの甘ったれのくせに社会や政治のことになるとやたら過激で実現性のないことを言う、学生ってそんなもんです。まあ、今はそういうのも少なくなって小賢しいのばっかりかもしれませんが。……で、それが邦訳では白書になったんですが、これは誤訳のようで名訳なのかなって思います。いろんな要素が低予算のせいなのか整理されずに生のままモザイク的に出てくるところが(当時理解されていた)白書ってイメージに合ってるなって。
この映画ではいろんな音楽が出てくるんですが、最初とエンディングに出てくるバフィ・セント・メリーの歌う「サークル・ゲーム」がポップでセンチメンタルなメロディとヴィブラートなのか音程が不安定なのかわかんないような歌い方とが相まって、とてもいいですね。「回転木馬のように季節は巡る。人生はまるでサークルゲームのようだ」って歌詞なんで、今でもノスタルジックな感じのCMソングに使われたりします。この映画では額縁のように使われているので、青春の一場面的なイメージを強めてると思います。
それと対照的なのがジョン・レノンの“Give Peace a Chance”で、体育館(あらすじで講堂ってなってるのは安田講堂でもイメージしたんでしょうかね)に籠城した学生たちが床を叩いて歌います。レジスタンスって感じですね。非欧米風(だと思うんですが)の単純素朴なリズムが抵抗運動とか革命とかって気分を昂揚させてくれて気持ちいいんだろうなと思います。
さて、最後に白書っぽいことを書きます。団塊の世代ってだいたい昭和23年(1948年)前後の人たちを言うんですが、今でも210~220万人もいて、110万人ほどの最近の赤ちゃんの倍もいます。下の図はいわゆる人口ピラミッドですが、もちろんこんなグラマラスなおねえさんのようなピラミッドは建ってられませんね。バストの部分が団塊の世代で、ヒップの部分が彼らの子どもの世代、団塊ジュニアです。
これを見てるだけでも年金を始めとした社会保障はどうなるのか、景気対策とかで散々浪費したツケの巨額の財政赤字を誰に払わせるのかって気になりますが、まあそれはとりあえずおいときましょう。私が言いたいのは、かつての学生運動の本当の理由ってこの団塊、大量の人のカタマリが暇で自由な大学生だったから起こったんだってことです。……もちろんいっぱい異論があるでしょうね。ヴェトナム戦争があった、成田空港問題があった、公害があった、大学が腐敗していた、そんな社会の矛盾が背景にあったんだよ、わかってないねと。なるほど。じゃあ、そんな社会の矛盾だか、政治のおかしなことはなくなったんですか? ユーミンの歌のように就職が決まって長髪を切ったのは問題が解決したからですか?……今だって社会問題や政治問題はいくらでもあります。昔より多いか少ないかは別として。
で、私が言いたいのは、もうすぐこの団塊の人たちが順次会社を定年になって、やっぱり暇で自由になるってことです。彼らの持っている大量のおカネを目当てに既にいろんな企業がもろもろの商品戦略を立てていることはご存知だと思いますが、それだけではないでしょう。目の前に忙しくてかまっていられなかった社会問題や政治問題もあるわけです。実際、そういう問題に多少なりとも継続的に取り組んで来たのは、私の見るところ団塊の世代以下の主に女性です。ってことで、「いちご白書」がもう一度なんですよ。甘くて過激な、そして結局社会を良くするどころか、引っ掻き回すだけで後は知ったこっちゃない、説明責任なんていう言い訳だらけの人間を育てるだけの空騒ぎが起こるでしょう。いやはやそう思うと憂鬱です。
そんな悲観的な私に頼もしい人生の先輩、団塊の世代の方のやさしい声が響きます。……何を言っているんだ。ぼくら(先輩は一生この一人称を使うんでしょうか?)だってもうあんないちごじゃない。世の中の仕組みも人生の酸いも甘いも噛み分けた大人に成長したんだよ。あれをよこせ、これをよこせなんて結局、君たちの負担を増やすばかり、ぼくらは子どもたちの倍もいるんだからつつましくしないとね。今の政治にしても社会にしても、いやそんな大げさなことを言わなくても企業にしても、良くなっていないとすればそれを支えてきたぼくらの責任じゃないか。文句を言うなら企業の中で主張し、自分たちの周りで行動すべきだったんだ。それを気楽な立場になったからって、口を拭ったように若い諸君にああしろ、こうしろなんて高みから言うなんて恥を知らないやり方だ。平和にはチャンスを、しかし我々にはもうチャンスは十分与えられてきた。今さら何を言おう。……てな人はいますかねw。