ニースのシャガール美術館と近くのマントンのジャン・コクトオ美術館のことは、物語の最初の方に書きましたが、ニースにはマチス美術館もあります。ここには大作はないのですが、いわゆるブルー・ヌードのシリーズがあってとても印象的で、きれいでした。空港に行くまでの短い間でしたが、朝早かったので窓からの光も瑞々しかったのを覚えています。
こうした絵を見ると反発する向きもあるでしょう。こんなのはマチス(1869-1954)だからありがたがられるのであって、一応の絵心があれば誰でも描ける切り絵みたいなものではないかと。確かに造形といって特別なものはなく、通常の意味でのマチエールもなく、実物の色も全くグラデーションのようなものはありません。
この問題についての私の考えを述べる前にちょっと寄り道をして、終生のライヴァルであるピカソの話をしましょう。ピカソはマチス以上に有名で高価ですから、そういった類の批判にさらされてきました。ある日本の有名作家はピカソなんかに感心したことはないと激しい口調で主張しています。その適否はともかく、権威にひれ伏さず、「裸の王様」だと言う勇気は常に必要でしょう。私も正直言ってキュビスム以降のピカソについて全部が全部傑作なのかは疑問を持っていますし、ゲルニカを観たときも大きいなぁ、すごい警備だなぁという間抜けな感想しか持てなかった人間です。しかし、箱根の美術館でピカソが描いた夥しい絵皿を順々に観て行って「どうだい? 私は呼吸しただけでも天才だってことがわかるだろう?」と彼に言われている気がして、好感は持てなかったもののその才能には敬服せざるをえませんでした。
マチスの制作に対する姿勢はもう少しまじめなものだと思いますが、同様に多くの類似作品が並べられた美術館で観た上で判断すべきだと思います。ピカソもマチスも高い世評を背景に、悠々自適の晩年において自由気ままに造形と戯れているのですから。……
この「葦の中の水浴」(1952年)もマチス美術館で同時期の多くの絵画、彫像、服飾デザインなどがあって、初めて理解されるものなのかもしれません。でも、冒頭に述べたような幸福な条件の下で観た私には、この作品単独で取り出しても、ここまで単純なフォルムでいながら、しかもエロスがちゃんと漂っているのは見事だと思えます。それは実際の女性のイメージを喚起するなどといったものではありません。抽象画も絵画の一種ですから、どのように見ようとその人の自由ですが、私は具象画に還元したりはせず、そのまま作品と対話するのが好きです。そして、多くのダイアログが成り立つ作品が私にとっての傑作なのです。その内容をふつうの言葉で表現することは困難なのですが、そこがまた心に残る所以でもあるわけです。……そういうことをしたことはないのですが、この絵のレプリカがとてもよくできていたので買い求めて、部屋に飾っています。しかしながら、今まで来客の関心を惹いたことはありません。
そうそう、余計な話ですが、ヒンデミットの「画家マチス」は、この作品の作者のアンリ・マチスのことではなく、30年戦争当時のマチス・グリューネヴァルト(1475?-1528)のことです。まあ、ヒンデミットの作風や曲の内容から言ってわかることではありますが。