モネの「散歩、パラソルをさす女」は、ああ、こういう光景を見たことがあるなって感じにさせる絵です。パリ郊外か田舎か、いずれにしても日本の風景ではないし、パラソルをさした女性の目鼻立ちは逆光ながらも当たり前ですが、日本人とは違います。それでもデジャヴュのようなものを覚えるのは、風と草いきれを濃厚に感じさせて、時間の敷居が曖昧になる夏を描いているからでしょうか。それともパラソルが太陽を隠し、冷ややかに見下ろされる構図自体が深層心理というか記憶の古層に触れるからでしょうか。
この絵には、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466を合わせてみました。2つしかない短調のピアノ協奏曲のうちでもこちらの方が私は好きですが、あまり悲劇的に考えたり、手ずれのしたデモーニッシュって言葉で片付けたくないですね。太陽を流れる雲がちょっと隠したくらいに考えた方がいいと思います。別に楽譜を分析したわけではありませんが、短調的なところは半分もないんじゃないかって思いますし、楽章を追うごとに明るくなってきますから。光と影の曲。だからこの絵が合うような気がしたんです。もうちょっと理屈っぽく言えばモーツァルトの転調を始めとした曲想の変化の早さと鮮やかさは古今無比と言えると思いますけど、そういう瞬間的なものをこの絵は切り取ろうとしているわけで、ある意味ヴィデオのモーツァルトをスティール写真で写し取ったと見立ててもいいかもしれません。全然理屈になってませんけどw。
記憶の底にあるものっていう意味で、この絵は私はどこか暗いようなイメージを抱いています。明るい中に暗さがある。モーツァルトの曲は暗い中に明るさがある。だからよけいに明るいところがしみ入ってくるように思いますし、安直なセンチメンタリズムに堕したりしないんじゃないでしょうか。モネの絵は目に入るものをそのまま描いたと思わせる工夫と技術がありますが(見えたまま描けばいいなんていう、学校なんかでの指導は全く役に立たない、実際に絵を描くということを知らない人間の言うことです)、ただそれだけでは私にはダレてしまいます。例えば睡蓮の連作のように。しかし、この作品は脇の子どもを含めてドラマ性があるだけにいい感じで心に引っかかってくれるのです。