仙台駅で6時前の一ノ関行きを始発を待つ。二日酔いでちょっと頭が痛い。平泉まで行くつもりだったが、その後はお天気や気分次第といったところだった。小雨がパラついてた。
仙台はおしゃれな子が多くて、同じホームにリズリサっぽいスカートの子とマーズのピンクの豹柄のセットを着た子がいた。
松島のちょっと手前で線路に津波をかぶった跡を見つけた。一ノ関近くで気が変わって、今日は釜石に行くことにした。この旅程も検索してプリントアウトしてあった。ポイントになる駅の時刻表もプリントアウトしてあるから、急な変更もできる。
一ノ関に7分遅れで到着し、乗り継ぎの盛岡行きも6分遅れで出発。
平泉を過ぎたけど、やっぱり小雨が降ってる。これが観光する気にならなかった理由だった。
花巻から釜石までは最初に買った切符のルートをはずれるので、往復切符を買おうとしていたら、駅員が親切にホリデーパスが安いと教えてくれた。往復だと3200円なのが、ホリデーパスだと1日乗り降り自由で2400円ですむ。
遠野を過ぎても古いものも含め家屋の損傷はほとんど見えない。揺れ自体はが大したものでなかったのか。
釜石に昼前に着く。宮古へ向かう山田線の時刻表と案内板が不通となっていることを伝えている。駅舎にはさほどの被害はなかった。
右手に新日鉄を見ながら釜石駅から市街地へ行く。自衛隊のジープが行き交い、次第に惨状が見えてくる。
釜石市街地は一階部分がすべて損壊している。信号が全部消えた中、車がたくさん通り過ぎるが、人通りはほとんどない。
ドブのような臭いだけがこれは現実だと伝えて来る。
言葉は何も出て来ない。居心地の悪さを感じながら商店街だったところを歩く。
人の声がほとんど聞こえない。たまに通りすぎる人が「ご苦労様です」と声を掛けてくれるのに目を逸らしながら黙ってお辞儀するだけだ。
人びとの日常がゴミとなって放り出されている。
まだ数百メートルしか歩いていないのに生まれてからこんな光景を見るのは初めてだと確信する。
少し高台の市役所は無事だったようで、すぐ前の中学校の古い体育館が避難所になっている。とても覗き込む気になれない。
看板が必要な情報だけを淡々と知らせる。我々はテレビで無理強いのインタビューやうるさい解説の付いた映像で被災地を見たつもりになっている。
これが市役所で、裏は高台になっているからか被害はなさそうだ。中に入ってみる。
市民課には明かりが点いていて人はいるようだが、森閑としている。おそるおそる階段を上がっていく。怪しい者ではないが、何をしていると誰何されると困る。見学ですとでも言うのだろうか。
屋上にも上がることが出来た。激励の意味も込めてのこいのぼりだろうか。ここから見ても人影はない。たぶん住民は避難所に引きこもっていて、自家用車の多くはよそから来たぼくと同じ物見遊山なのだろう。
今度は海を目指して街を歩いて行く。倒れた電柱もそのままに新しい電柱が立っている。電気は最重要のインフラだ。
平穏な生活は卵の殻のようにもろい。戦場を歩く兵士の気分はこういうものなのかもしれない。
中国の貨物船だろうか。「亜州欣和 ASIA SYMPHONY」という船名が皮肉に感じられる。一種の名所になっているのか、何台も車が来て写真を撮って去って行く。
魚市場は水浸しになって静かな波に洗われている。地盤が下がったから満ち潮になるとこうなるのだろう。
この地方は津波の備えは十分していたはずなのに。…ふと東電や政府の言う「想定外」は「責任外」という意味なのだろうと思った。
家に赤い旗が掲げてあったり、×印がペンキで書かれている。捜索済みの印だろう。
堂々とした銀行も1階と2階は津波に襲われたようだ。目が慣れてきてどの辺りまで津波が来たかわかるようになってきた。
「全員無事です」と連絡先を書いた立札ががれきの上に立てられている。
がれきや泥の中から集めたのか、泥を落とすでもなく並べてある。家族の生活を雄弁に語っている。
壊れた家のところどころに「がんばれ釜石」とか「ここで診療を再開します」といった貼り紙がある。
玄関だけを残して中ががらんどうになっている。
洗面所のユニットだけが原型を留めている。顔を洗ったり、歯を磨いたりしたんだろうなと思う。
鮮魚店の跡だろうか、鮭が泥にまみれて悪臭を放っている。おそらく人間もこのような姿で発見されたのだろう。
河口近くはとても水が澄んでいて、水鳥もいる。川面だけ見ていれば背中に惨状が広がっているとは思えない。
駅に戻る。長かったようで2時間もいなかった。駅の隣の物産センターがけっこうにぎやかで、さっきまでの風景と全く違っている。
少しは釜石におカネを落としていきたいと思って、2階の食堂でうにホタテ丼を食べた。混み合ってにぎやかだったが、誰も津波の話はしていなかったように思う。
帰りは快速だ。今日は花巻に泊まろう。
仙台はおしゃれな子が多くて、同じホームにリズリサっぽいスカートの子とマーズのピンクの豹柄のセットを着た子がいた。
松島のちょっと手前で線路に津波をかぶった跡を見つけた。一ノ関近くで気が変わって、今日は釜石に行くことにした。この旅程も検索してプリントアウトしてあった。ポイントになる駅の時刻表もプリントアウトしてあるから、急な変更もできる。
一ノ関に7分遅れで到着し、乗り継ぎの盛岡行きも6分遅れで出発。
平泉を過ぎたけど、やっぱり小雨が降ってる。これが観光する気にならなかった理由だった。
花巻から釜石までは最初に買った切符のルートをはずれるので、往復切符を買おうとしていたら、駅員が親切にホリデーパスが安いと教えてくれた。往復だと3200円なのが、ホリデーパスだと1日乗り降り自由で2400円ですむ。
遠野を過ぎても古いものも含め家屋の損傷はほとんど見えない。揺れ自体はが大したものでなかったのか。
釜石に昼前に着く。宮古へ向かう山田線の時刻表と案内板が不通となっていることを伝えている。駅舎にはさほどの被害はなかった。
右手に新日鉄を見ながら釜石駅から市街地へ行く。自衛隊のジープが行き交い、次第に惨状が見えてくる。
釜石市街地は一階部分がすべて損壊している。信号が全部消えた中、車がたくさん通り過ぎるが、人通りはほとんどない。
ドブのような臭いだけがこれは現実だと伝えて来る。
言葉は何も出て来ない。居心地の悪さを感じながら商店街だったところを歩く。
人の声がほとんど聞こえない。たまに通りすぎる人が「ご苦労様です」と声を掛けてくれるのに目を逸らしながら黙ってお辞儀するだけだ。
人びとの日常がゴミとなって放り出されている。
まだ数百メートルしか歩いていないのに生まれてからこんな光景を見るのは初めてだと確信する。
少し高台の市役所は無事だったようで、すぐ前の中学校の古い体育館が避難所になっている。とても覗き込む気になれない。
看板が必要な情報だけを淡々と知らせる。我々はテレビで無理強いのインタビューやうるさい解説の付いた映像で被災地を見たつもりになっている。
これが市役所で、裏は高台になっているからか被害はなさそうだ。中に入ってみる。
市民課には明かりが点いていて人はいるようだが、森閑としている。おそるおそる階段を上がっていく。怪しい者ではないが、何をしていると誰何されると困る。見学ですとでも言うのだろうか。
屋上にも上がることが出来た。激励の意味も込めてのこいのぼりだろうか。ここから見ても人影はない。たぶん住民は避難所に引きこもっていて、自家用車の多くはよそから来たぼくと同じ物見遊山なのだろう。
今度は海を目指して街を歩いて行く。倒れた電柱もそのままに新しい電柱が立っている。電気は最重要のインフラだ。
平穏な生活は卵の殻のようにもろい。戦場を歩く兵士の気分はこういうものなのかもしれない。
中国の貨物船だろうか。「亜州欣和 ASIA SYMPHONY」という船名が皮肉に感じられる。一種の名所になっているのか、何台も車が来て写真を撮って去って行く。
魚市場は水浸しになって静かな波に洗われている。地盤が下がったから満ち潮になるとこうなるのだろう。
この地方は津波の備えは十分していたはずなのに。…ふと東電や政府の言う「想定外」は「責任外」という意味なのだろうと思った。
家に赤い旗が掲げてあったり、×印がペンキで書かれている。捜索済みの印だろう。
堂々とした銀行も1階と2階は津波に襲われたようだ。目が慣れてきてどの辺りまで津波が来たかわかるようになってきた。
「全員無事です」と連絡先を書いた立札ががれきの上に立てられている。
がれきや泥の中から集めたのか、泥を落とすでもなく並べてある。家族の生活を雄弁に語っている。
壊れた家のところどころに「がんばれ釜石」とか「ここで診療を再開します」といった貼り紙がある。
玄関だけを残して中ががらんどうになっている。
洗面所のユニットだけが原型を留めている。顔を洗ったり、歯を磨いたりしたんだろうなと思う。
鮮魚店の跡だろうか、鮭が泥にまみれて悪臭を放っている。おそらく人間もこのような姿で発見されたのだろう。
河口近くはとても水が澄んでいて、水鳥もいる。川面だけ見ていれば背中に惨状が広がっているとは思えない。
駅に戻る。長かったようで2時間もいなかった。駅の隣の物産センターがけっこうにぎやかで、さっきまでの風景と全く違っている。
少しは釜石におカネを落としていきたいと思って、2階の食堂でうにホタテ丼を食べた。混み合ってにぎやかだったが、誰も津波の話はしていなかったように思う。
帰りは快速だ。今日は花巻に泊まろう。