死の商人と言えば武器・弾薬を売る人のことを言いますが、私は宗教家というのも同じような気がしています。ふつうの日本人が何かの宗教に入信する動機は、たいていが自分か家族の病気や死です。つまり人の弱みにつけ込んで誘うわけで、不幸は信者獲得の絶好の機会であるわけです。
急いで言っておきますが、死の商人というのはもちろんたちの悪い冗談で、ふつうの人たちはそれだけ死というものに無関心か、無意識に遠ざけているということです。だからこそメメント・モリ(死を忘れるな)という中世キリスト教の言葉が今も強い説得力を持つのでしょう。
地下鉄サリン事件から10年が経ちました。あの時、いろいろなことが言われましたし、正しい意見も少なからずあったと思いますが、「正しい宗教ならあんなことはしない」といった意見と、「科学を学んだ者がオウムなんかに入信するなんて」といった意見は違うなぁと思いました。
たとえオウムが宗教としては、麻原の空中浮遊に見られるようにインチキであったとしても、入信の動機(それが自分の病気や家族の死と関係していても、いなくても)に「なぜ自分は生きるのか」とか「なぜ自分は死ななければならないのか」という普遍的な、かつ理性では解決不可能な疑問が横たわっていたのであれば、それはやはり宗教の問題だろうと思います。同時に理性で真理を発見しようと希求する科学者であればこそ、こうした疑問に捕らわれやすく、徹底的に追求してしまいやすいのだろうと私は想像しています。
それ以上に困ったことに、宗教は純粋で活力があればあるほど「いけにえ」を要求します。倫理的には絶対的な悪である殺人や殉教という名の自殺を求めるのです。それはイラクやパレスチナで起こっていることを見ればある程度理解していただけると思いますし、60年前に特攻隊という「自爆テロ」を行っていた日本人が無自覚に批判できるものでもないと思います。
でも、一般的には日本人は無宗教だと言われます。神社に初詣に行くし、葬式ではお経が流れるし、何よりクリスマスはいちばんのお祭りだし……だのにふだんは神道にも、仏教にも、キリスト教にも関心がないと。それって(信者から見れば)無節操だとは思いますが、無宗教の証拠にはならないでしょう。特定の宗教にこだわらないだけです。
新年に自分と家族の幸福をお願いし、死者の冥福を祈り、年末に彼女(又は彼氏)との強い絆を求めるwのは、ごく自然な感情です。昔から学問成就は天満宮、安産祈願は水天宮、商売繁盛は戎神社と、神様を使い分けしていたのと同じです。つまり、やおよろずの神にお釈迦様やイエス様が入っているのです。
こういうふうに言うと、「おまえがごたまぜが日本の宗教って言うんだったら、その精神や教義がわかるような、聖書みたいなものを見せてくれ」って詰め寄られますよね。でも、そういうのはないんですよ。古代ギリシア・ローマだって同じで、神話しかありません。多神教ってそんなものです。だって、アニミズム、何にでも神的なものが宿るって考えですから、福音書みたいなストーリー展開も、パウロの手紙みたいな論理展開もむずかしいです。だいいち布教の必要もないし。
苦しまぎれに言うと、宮崎アニメかなぁ……「千と千尋」とか「もののけ姫」とかにはアニミズムが満ちています(「ハウル」はまだ観てません)。だから、あんなに人気があるんでしょうし、そういう意味で日本人(こんなふうに一括りにされるのが嫌な人は多いでしょうけど)は、変わっていないとも言えるでしょう。ふつうは自然志向みたいに理解されてるんでしょうけど、なぜ宮崎アニメが(経験したことのない人にも)懐かしさを感じさせるのかはそれでは解けません。
気づかれた方もいらっしゃるでしょうが、アニミズムもアニメーションも、アニマル浜口wも同じ語源です。アニマ=動くものということです。「トトロ」のどんぐりがみるみる大樹になる、あのイメージです。
宗教については、またお話したいと思います。
信仰とは違うんですよね?
確かに宗教はOSかもしれませんね。共同体の信仰の場合は。
信憑性とは違うとは思っていたんですけどw。