夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

日本人は無宗教?

2005-03-29 | philosophy


 死の商人と言えば武器・弾薬を売る人のことを言いますが、私は宗教家というのも同じような気がしています。ふつうの日本人が何かの宗教に入信する動機は、たいていが自分か家族の病気や死です。つまり人の弱みにつけ込んで誘うわけで、不幸は信者獲得の絶好の機会であるわけです。

 急いで言っておきますが、死の商人というのはもちろんたちの悪い冗談で、ふつうの人たちはそれだけ死というものに無関心か、無意識に遠ざけているということです。だからこそメメント・モリ(死を忘れるな)という中世キリスト教の言葉が今も強い説得力を持つのでしょう。

 地下鉄サリン事件から10年が経ちました。あの時、いろいろなことが言われましたし、正しい意見も少なからずあったと思いますが、「正しい宗教ならあんなことはしない」といった意見と、「科学を学んだ者がオウムなんかに入信するなんて」といった意見は違うなぁと思いました。

 たとえオウムが宗教としては、麻原の空中浮遊に見られるようにインチキであったとしても、入信の動機(それが自分の病気や家族の死と関係していても、いなくても)に「なぜ自分は生きるのか」とか「なぜ自分は死ななければならないのか」という普遍的な、かつ理性では解決不可能な疑問が横たわっていたのであれば、それはやはり宗教の問題だろうと思います。同時に理性で真理を発見しようと希求する科学者であればこそ、こうした疑問に捕らわれやすく、徹底的に追求してしまいやすいのだろうと私は想像しています。

 それ以上に困ったことに、宗教は純粋で活力があればあるほど「いけにえ」を要求します。倫理的には絶対的な悪である殺人や殉教という名の自殺を求めるのです。それはイラクやパレスチナで起こっていることを見ればある程度理解していただけると思いますし、60年前に特攻隊という「自爆テロ」を行っていた日本人が無自覚に批判できるものでもないと思います。

 でも、一般的には日本人は無宗教だと言われます。神社に初詣に行くし、葬式ではお経が流れるし、何よりクリスマスはいちばんのお祭りだし……だのにふだんは神道にも、仏教にも、キリスト教にも関心がないと。それって(信者から見れば)無節操だとは思いますが、無宗教の証拠にはならないでしょう。特定の宗教にこだわらないだけです。

 新年に自分と家族の幸福をお願いし、死者の冥福を祈り、年末に彼女(又は彼氏)との強い絆を求めるwのは、ごく自然な感情です。昔から学問成就は天満宮、安産祈願は水天宮、商売繁盛は戎神社と、神様を使い分けしていたのと同じです。つまり、やおよろずの神にお釈迦様やイエス様が入っているのです。

 こういうふうに言うと、「おまえがごたまぜが日本の宗教って言うんだったら、その精神や教義がわかるような、聖書みたいなものを見せてくれ」って詰め寄られますよね。でも、そういうのはないんですよ。古代ギリシア・ローマだって同じで、神話しかありません。多神教ってそんなものです。だって、アニミズム、何にでも神的なものが宿るって考えですから、福音書みたいなストーリー展開も、パウロの手紙みたいな論理展開もむずかしいです。だいいち布教の必要もないし。

 苦しまぎれに言うと、宮崎アニメかなぁ……「千と千尋」とか「もののけ姫」とかにはアニミズムが満ちています(「ハウル」はまだ観てません)。だから、あんなに人気があるんでしょうし、そういう意味で日本人(こんなふうに一括りにされるのが嫌な人は多いでしょうけど)は、変わっていないとも言えるでしょう。ふつうは自然志向みたいに理解されてるんでしょうけど、なぜ宮崎アニメが(経験したことのない人にも)懐かしさを感じさせるのかはそれでは解けません。

 気づかれた方もいらっしゃるでしょうが、アニミズムもアニメーションも、アニマル浜口wも同じ語源です。アニマ=動くものということです。「トトロ」のどんぐりがみるみる大樹になる、あのイメージです。

 宗教については、またお話したいと思います。

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6 コメント

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雑感 (8マン)
2005-06-14 22:26:06
宗教心の淵源には信憑といったものがありますね。教団宗教は内部結束のために生贄を必要とするのでしょう。ちょうど哺乳類の中には群れから仲間を放擲する種族があるように…。オウムに関しては「アタマのいい人が…」というのは専門知識のことで、それ以外を知らないことについては「アタマの悪い人」だったんですね(笑)。恐れの根本は混沌にあるにもかかわらず、死へのまなざしを先延ばしにして「空談」を繰り返している…というのは批判というより喝破されたヒトの現実性ですね。宗教への跳躍は何よりも≪信≫が優先されることですが、その≪信≫は≪信憑≫として、むしろ≪論≫よりも現実なんですが、その≪信憑≫の一部をピックアップしてみると、さまざまなコントロール不可能な≪信憑≫のくびきから逃れることができたんですね。(「特攻隊=自爆テロ」はいけませんよ)。
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すみません (夢のもつれ)
2005-06-14 23:08:28
信憑というキイ・ワードの意味が私にはつかめないので、コメントできないです。

信仰とは違うんですよね?

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ひょいっと… (8マン)
2005-06-15 00:20:13
信がひょいっと憑依するんです(笑)。火星の表面のデコボコを見てヒトの顔を造形してしまったり、空間がいきなり裂けて裂け目から虎が襲ってくるなどという心配をしなくてすんだり…。見ることには、見ているコトやモノがすべてだという「信」が不可分にくっついてきて、それが見ることの限界でもあり、先の安心のよりどころでもあり、同時に、あり得べきようにしか像を構成しなかったりもするんです。経験というフィルターを通すと先入観ということになりますが、人型の造形はおそらくは経験以前にフォーマットとして脳に刻みこまれているいわばOSの作用です。信仰は「信」に至るまでに物語の理解や決心などがあると思います。アニミズムは信の憑依だけで充分じゃないかな、という観相です。オカルトにも転写可(笑)。
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ご教示ありがとうございます (夢のもつれ)
2005-06-15 00:40:43
なるほどー、パラダイムのようなものですね。

確かに宗教はOSかもしれませんね。共同体の信仰の場合は。

信憑性とは違うとは思っていたんですけどw。
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雑感 (ファルコン)
2006-01-11 16:17:46
最近の日本人の流れに、宗教の忌まわしい事件は過去のものとして、むしろ一神教のような流れを。あたかも子供じみているなどと、精神的に熟している優位性を主張する場面を目にしますが、まったくもって、「老い、死」の問題を社会の中にとりこんだ一つの諦観としてとらえていますよね。すべては、社会を中心とした現実社会の目に見えないヒエラルキーが日本を席巻していて、その中でのみ、希望とか夢を語ろうとするわけです。それだけ、ITの普及が「理念→現実(言葉、プログラム)」という直結の流れを促進したので、今までのように社会を諦観を中心とした世界観を持つ必要性がなくなったわけです。しかし、だからこそ、宗教の美学が逆に、長い時間をかけて求められるという流れになったのです。それは、聖書に帰るとか、日本の神話の古典世界に帰るというのではなく、ありとあらゆるものを、混沌の中から秩序を求めるというこの上ない難作業を始めざるをえない今の日本の流れです。



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深き淵より (夢のもつれ)
2006-01-12 00:25:11
こんな古い記事まで目を通していただき、恐悦至極です。諦観を中心とした世界観というのはいいですね。私としてはどうしても回顧的に考えざるを得ないのですが、復古は不可能なのでぶつぶつ言うだけです。
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