「笑わせて笑わせて桂枝雀」(上田文世著)を読みました。枝雀の生い立ちから死に至るまでの軌跡をきちんと取材をし、またその芸の進化についても入念な考察を加えていて、伝記としてよくできた本だと思います。彼の落語を愛する人にお勧めします。……書評としてでなく、枝雀について少しだけ私自身の思い出を書きます。
私が最初に枝雀の落語に接したのはまだ小米時代だったんだと思いますが、なんの気もなしにラジオで聴いて、お腹が痛くなるほど笑わせられ、と同時に登場人物が話の外に出てくるのに「こんなシュールな演じ方があるのか」と驚かされました。
その後、あまり見ないなと思っていたら、急にブレークして自分のテレビ番組を持つ人気者になりました。実際に高座を見たのは近所の大学でのものだけですが、満員の観客が彼に操られるようにどわっ、どわっと笑うのを今でもよく覚えています。
彼の落語が比類のないおもしろさを持っていることは明らかですが、お笑いを突き詰める姿勢や現実感を喪失したようなモノの見方から、何か危ういもの、怖いものを抱えている人なんだろうなと感じていました。でも、重いうつ病にかかり、自殺してしまうほどのものとは想像していなくて、そのニュースに接した時はショックを受けました。
人を笑わせるというのはおそろしい職業だと思います。人がなぜ笑うのかもよくわかりませんし、わかったからといって間違いなく笑わせるすべがあるわけでもないからです。これに比べると人を泣かせるのはずっと簡単で、どういう場合にどうすれば人が泣くか、とても単純なものでちょっと経験を積めば誰でもできるでしょう。
枝雀は緊張と緩和で笑いの原理を説明し、落語のサゲも画期的な分類を考えた極めて知的な人ですが、分析や知性だけで人を笑わせることができるとは思っていなかったでしょう。これは想像ですが、なぜこんなギャグで笑うんだと自戒しながらも思ってしまったでしょう。誰でも好きなだけ笑わせることができたのに、自分だけはそうできなくなってしまったのかなと思います。
そのような理由で、後に他で活躍する人と同一人物であったのかと言う印象は同時のラジオファンには馴染みがある感覚ですね。
ただ小米に関しては当時から神経を痛めているというイメージもあって、私にとっては反対に後のブレークがある意味で比較的連続的でした。
しかし、ホンマにラジオ好きやったんですねw。
私は小米でラジオのDJをしていたのをよく聞いていて、そのときののんびりしたおじさんというイメージと、枝雀としてテレビで見たときのギャップが大きく、別人だとしばらく思っていたくらいです。
小米=枝雀と知ったときは、何かすごい改革をして変身をしたのかと思いました。
そんなことも影響してか、枝雀の落語は私には何かはりつめた痛々しいものに感じ、あまり笑えなかったのですよね。
数聞いたわけでもないし、ライブで聞いたわけでもないので、もっと長生きされてきちんと聞く機会もあれば、また違う感想になったのかも知れませんが…