夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

スペシャリスト/自覚なき殺戮者:Un spécialiste, portrait d'un criminel moderneは何を表現しているのか?

2016-09-14 | review

 この映画はhuluで見たんですが、その解説によるとナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を捉えた350時間にも及ぶテープを、ハンナ・アレントの著作「イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」を踏まえて編集した幻の傑作で、ユダヤ人追放のスペシャリストとして頭角を現したある男の、その実像をあぶり出したものとのことです。原題のフランス語を直訳すると専門家・現代の犯罪者の肖像となるでしょう。

 アイヒマンについては、ナチスドイツによる「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担い、戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行され、1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処されたといったウィキの記事にあるようなことですから、良心のかけらもない極悪人であり、戦後も逃亡していたから敗戦とともに自決したヒトラーよりタチが悪いと思う人もいるかもしれません。予備知識なしにこの映画を見ようとする人は、タイトルから大量殺戮のスペシャリストとしての彼を現代の戦争犯罪の代表として描こうとした作品だと想像するんじゃないかと思います。

 ところが、この映画におけるアイヒマンの主張は、自分はユダヤ人などの移送の専門家スペシャリストに過ぎないということで一貫しています。アレントのEichmann à Jérusalem : Rapport sur la banalité du malは読んでいませんが、彼女は彼がホロコーストにおける重要な任務を平然と行いながら、裁判においては自分は与えられた任務をこなしていただけだという無責任な答弁に終始し、深い反省を示さなかったことにある種のショックを受け、それをla banalité陳腐という組織犯罪における悪の本質のようなものを感じたのかもしれません。

 実際にこの映画を見て、家畜以下の待遇で貨車の中で次々と死んでいった人たちやガス室に送り込まれる子どもたちについての生々しい証言を聴きながら、何の感情も抱いていないようなアイヒマンの表情に激しい怒りや嫌悪感を覚える人は多いでしょう。なぜ自分のやったことを直視しないのか、なぜ数百万人の罪もない人々が感染症や銃殺刑やガス室で命を落とさなければならなかったのか考えたこともないのかと。人の痛みや苦しみを思いやれないアイヒマンは人間性を欠いた性格異常じゃないかと思う人もいるでしょう。

 でも、ぼくは映画としてこの作品がそうしたことを表現できているかと訊かれれば、制作意図がそうしたものだとしたら失敗作だと言うでしょう。ドキュメンタリーなんだから表現も意図も関係ない、事実ありのままじゃないかと考える人はこの記事をもう読まない方がいいでしょう。なぜならぼくは歴史的事実と歴史的評価とそれらを基にした映画作品としての評価の3つは別個に論じられるべきだと頑なに思っていますから。そういう意味では、アイヒマンの行った歴史的事実は当事者であるドイツとイスラエルの共通認識で確定しているのだろうと思っていますし、彼の歴史的評価は共通認識を基にしてアレントのような人によって、今後もある程度変わっていくのだろうと思っています。

 では、3つめのこの映画をぼくはどのように評価したのか、そもそもどのように見えたのかと言えば、被告と検事と判事の主張や立証趣旨や意図がまるで噛み合わない出来そこないの裁判を見せたかったように見えたってことです。アイヒマンは自分はユダヤ人などの移送の専門家として、いわば組織の歯車として任務を遂行しただけで、できることも責任も限定されていたのだと主張しているのですから、検事側の反論としてはまず被告の権限と責任はもっと広く強力なものだったと主張し、立証すべきでしょう。しかし、検事たちはそうしたことをほとんど行っていませんし、稀にしていても映画では尻切れトンボのままです。

 検事側が主に行っていたことは、アイヒマンの移送計画とその実行によって引き起こされた人々の悲劇の再現です。つまり結果責任を問うているのですが、一般的な話として行政において結果責任がまず問われるべきなのは選挙で選ばれた人たちでしょうし、企業においては社長を始めとした取締役たちでしょう。こう言うと、それは筋論としてはそうかもしれないけど、実際の行政を動かしているのは個々の部署の役人であり、豊洲市場に盛り土がしてあるかどうかなんて都の役人がウソを吐けばわからないし、三菱自動車がデータをごまかしていたのも現場の責任者だけなのか、経営陣の指示なのかが重要だと考える人は多いかもしれません。

 しかしながら、この映画でのアイヒマンは現在の日本を代表する大組織のような事実と全く異なるウソを吐いてはいませんし、少なくとも検事たちはそうした立証はできていません。そもそもその必要性も感じていなかったのでしょう。これに対し、アイヒマンが繰り返し強調しているのは、実施段階において指揮命令系統が極度に混乱していたことと、運輸省と鉄道局といった様々な組織の連携が全く取れていなかったこと、つまり自分の権限の及ばないところで悲惨な事態が生じていたのだということですから、噛み合わないのは当然でしょう。

 通常の裁判と違って、いわばニュルンベルク裁判の続編をエルサレムでやったわけですから、判事もビシビシ追究しますし、黙秘権もなく、弁護人はいないのも同然です。簡単に言えばアイヒマンは圧倒的なアウェイです。被告席は防弾ガラスのようなもので囲まれていて、罵声も浴びせられます。もちろんユダヤ人国家の政治ショーであり、判決は初めから死刑しかないことは被告も知っていました。ジャンヌダルクやガリレオが裁かれた宗教裁判と同じ構造です。それが人類史上最悪の国家による民族絶滅を企図した犯罪か、異端思想なのかが違うだけであり、刑事被告人の人権やDue processといったものは脇に押しやられてしまうのです。人道に反する罪を問う裁判が非人道的な茶番劇になるのは、深い意味で必然だという気がします。

 しかし、この映画を作った人たちは無調っぽい表現主義的なBGMや変なエフェクトを使ったりして編集作業を行っているので、アイヒマンの冷酷さを浮き彫りにしようという意図は明白ですから、意味深さのはるか手前で悦に入っているわけであり、下手な料理人が出来合いのレシピで調理したばかりにせっかくの食材の味わいを損なっているといったところです。彼らは自分が何をしているのかわからないのだという言葉を思い出します。

 資料を手に淡々と15年以上前の事実関係を詳細に述べる姿は、ぼくには陳腐と言うより歴史と真摯に向き合うものだと映りました。少なくとも軍事裁判にかけられるのが怖くて自殺した近衛文麿とか、それが心配なだけなのに格好をつけて自殺したって感じの阿南惟幾といった連中の方がよほど陳腐です。敗戦の日に陸軍省や海軍省は大量の文書を焼却したそうですから、同じ意図だったと評して何か矛盾がありますか。しかもアイヒマンはSSの中佐にすぎないのに対し、彼らは首相や陸相ですから組織を代表して説明し、結果について責任を取る義務があるはずです。そういった無責任な政治家、軍人がトップに立てるような組織がかつての日本を統治していたわけですから、何度も統帥権を犯すクーデタが起きたり、玉音放送を防ごうと天皇を守るために創設されたはずの近衛師団が皇居にテロをかけたりしたのでしょう。

 命がけでやっていると言う人間をぼくは信用しません。そんなことを口にする人間は自己陶酔していると自白し、責任を取らずに自分勝手に死んじゃうかもねって予告しているのと変わらないからです。組織において、いやもっと広く働くという意味を何も理解していないのでしょう。贈収賄事件で警察、検察がいちばん恐れるのが被疑者の自殺です。この秘密は墓まで持っていきますと言うのは、死人に口なし、あっかんべーって遺書を書くのと大した違いはないと思います。日本人はキリスト教徒やイスラム教徒と違ってどうも自殺を美化する傾向がありますが、それは歴史上しばしば卑怯者に魅惑的なシェルターを提供し、今後の教訓とすべき事実を覆い隠してきたことにいい加減気がつくべきでしょう。

 映画の話に戻ると唯一噛み合っていたのは、冒頭のまだナチス政権が狂気に走る前にドイツユダヤ人代表団の代表が証人となって、アイヒマンと入植地の交渉をした際のことを述べる場面です。アイヒマンは礼儀正しく、詳しい説明を求め、ユダヤ人問題の困難さをよく承知しているものの上司に報告するとだけ答えたと証人は述べます。要は役人として典型的かつ模範的だったということで、その風貌も相俟って東条英機をちょっと思い出させますが、もっと知的で自制心も責任感もあるようです。ついでに言っておくと、昭和天皇の戦争責任の有無の議論を今もやっている人がいたとしたら、そんな人の文章をぼくは読みません。だって、極東軍事裁判で天皇は訴追されなかったのだから戦争責任はないし、昭和が終わるまでそんな裁判はなかったんですから。無意味なことに意味を見出すのは邪な意図があるからでしょう。

 映画の最後で、アイヒマンがホロコーストと自分の行った、あるいはできなかったこととの関係について検事の質問に答える姿や転属を希望しながら許されなかったことなどを語る映像は歴史の高みからではなく、組織に属したり、人と関係する仕事をしている人間すべてが我がこととして見るべきものだと思います。彼の内省的な告白の中で、自分は事務屋だったから移送計画の立案や虐殺の現状報告をするだけでよく、殺戮自体を直接行わずに済んだことを喜んでいると述べたのが印象的でした。
































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