オケゲム(ca.1410-97)は、現在残されている個人名による最古のレクイエムです。なんだかすっきりしない言い方ですが、まず「現在残されている」と限定したのは、彼の師匠のデュファイ(ca.1397-1474)が作曲したという記録があるからです。しかし、残念ながらこれは残されていません。次に「個人名による最古の」ということですが、グレゴリオ聖歌が8世紀から9世紀にかけて、たぶん聖職者のうちで音楽的素養のある多くの無名の人たちにより整理され、記譜されていったという歴史があります。これをレクイエムの起源とすれば優に千年の歴史がある上に、ラテン語によるテクストはずっと同じなので、いつの時代のものでもテクストのどこにどのような音楽をつけているか比較することができます。つまり、レクイエムを聴いていけばヨーロッパの音楽の流れ全体を知ることができる!と言っても過言ではありません。
王侯貴族や高位聖職者ではない個人の名前が残る、「作曲家」というものが認知されること自体が中世の終わりを示しているわけで、彼ら以降、音楽は(他の芸術活動と同様)急速に発展していきます。
さて、この作品が最初のレクイエムですから、その構成を井上太郎さんの「レクイエムの歴史~死と音楽との対話」により紹介しておきます。この本ではレクイエムなど130曲を紹介していますが、データブックとしてだけでなく、音楽史として大変ユニークなもので、優れた考察が随所に見られ、お薦めです。
Introitus(入祭唱)
Kyrie(キリエ:これだけがギリシア語で他はラテン語です)
Graduale(昇階唱)
Tractus(詠唱)
Sequencia(続唱)
Dies Irae(怒りの日)がここに当たります。この中にLacrimosaやPie Jesuが含まれます
Offertorium(奉献唱)
Sanctus(感謝の讃歌)
Agnus Dei(アニュス・デイ)
Communio(コンムニオ)
カトリック典礼としての死者のためのミサはここまでで、Postcommunioとして柩の前で祈りの際に歌われるのが Libera Me(我を解き放ちたまえ)で、柩を墓地に運ぶ際に歌われるのがIn Paradisum(楽園にて)です。ただこれらのテクストすべてについて作曲した例はないように思います。モーツァルトのレクイエムのところで書いたようにこれらは、カトリックの典礼式の間に歌われるものだったのですが、バロック以降では次第に独立していき、Dies Iraeのようなテクストとしての劇的なものが中心になって、例えばGradualeやTractusのような儀式に付随したようなものはほとんど作曲されないようになりました。
さて、オケゲムの場合はIntroitus、Kyrie、Graduale、Tractus、Offertoriumだけが作曲され、その他の部分はグレゴリオ聖歌で歌うようになっています。こうした構成だけみても歴史的な内容の変化が見て取れます。
音楽として見ても過度の感情表現はなく、物足りなく思われる方も多いかもしれませんが、大げさな身振りではなく、静かに死者を悼み、その冥福を祈るというレクイエムの源流が確かなものとして感じられます。これが本物のアカペラ(チャペルでという意味ですね)であり、私は“The Hilliard Ensemble”のCDで聴いていますが、その純正律の合唱はそれだけで聴覚的快感を伴います。いくら高価な楽器でも人間の声にはかなわないものがあり、平均律のオルガンやピアノは言うまでもなく、弦楽アンサンブルですらここまでは合わせられないでしょう。それがそのまま心に沁み入ってくるのです。「ほの暗い死の谷間をさまようときも私は恐れないだろう。主の御業がともにあるのだから……」とても好きな一節を拙いながら訳してみました。
今タリス・スコラーズでパレストリーナの
ミサ曲をCDで聴いています。
タリス・スコラーズは女声が含まれるので
The Hilliard Ensembleより多少音楽表現に
多少幅があるかな……?
両方、生で聴いたことがあります。
演奏家よりまず値段重視で買っているので、気づかなかったですが、タリス・スコラーズで持っていたのがヴィクトリアとカルドーソのレクイエムでした。どちらも傑作で(特にヴィクトリアはパレストリーナ以上かも)、いずれ取り上げることになると思いますので、その時はよろしくお願いします。
このまえのシュッツといい現代音楽に通じる新鮮さを
感じる曲ですね。
>いくら高価な楽器でも人間の声にはかなわない
カトリックやロシア正教の人は未だにそんなことを
言っていますが、ピアノ好きな私は異議アリというところでしょうか(^w^)
それともメシアンかな?
カトリックとかじゃないんですが。……ゼレンカとかモラーレスのときに伴奏がハーモニーを濁してるなぁって思ったので。
その他の原因としては夢さんの二日酔い。
ついでにメシアンの方が100倍まし。
あは^^そう来るとは思ってました。まあ、メシアンはガリカニスムで、本流と言えばそうですから。
「楽器でも人間の声にはかなわないものがあり、平均律のピアノは言うまでもなく、弦楽アンサンブルですらここまでは」
「かなわないもの」を考えると興味あります。純正調の弦楽器で、復古的奏法をして繊細さを出せる例が多くは無いのが反証でしょうか。
しかし普通はヒリヤードのライヴ演奏でも音程を保つのは大変そうです。オペラとなると初めから諦めた方が良さそうですが。
弦楽器は音程の正確性も運動性も最も優れていますが、複数の弦は調弦をきちんとしても声ほどなめらかにつながらないからかなと。
もちろんアカペラかそれに近い曲の話で、オペラは器楽にあわせて歌ってますから、それはそれでいいのでしょう。
あまり言うと自慢話みたいでいやだったんですが、私は自分で音感はいいと思ってないので。
ある意味、そのぎこちなさがバッハの演奏でも「理想と現実」を繋いでいるわけで、そこが愉しむ味といっても良いかもしれません。
多声音楽の場合は、教会のアコースティックが前提になっているのでこれを想像してみると事情が分かるのではないでしょうか。仰るようにオペラはアカペラでなくて更にベルカントと言う唱法がその音程の正確さを邪魔していると言えるかもしれません。ですから現代の合唱団で音程が素晴らしいのは、バロック以前か現代ものを得意にしていますね。
フィードバックの意味も理解しました。これも頭蓋骨に伝わるような共鳴かも知れません。アフリカの部族かアボルジーニかの合唱が最も調和していると言うような事を聞いた覚えがあります。器楽の場合はこのレベルに達しない事は確かだと思います。
三島由紀夫論も全部読ませて頂きました。