
すべてがデータになる前に(10)
「ねえ。これ見える?」と言って、あの女が雑誌の1ページを見せてきた。細かい線で書かれた訳がわからない絵、立体視の。視力がよくなるとか記事が書いてある。「うん。イルカが……3匹跳ねてる」「えー、どうしてそんなにすぐ見えるの? あたしなんかずっとやってても見えないのに」
ぼくに話しかける仕方としては、いい方だと思う。「左右の視力がだいぶ違うせいかな。ちょっと焦点をずらしてればいいんだ。ぼやって見てれば……」女はしばらく絵を眺めていたが、ぼくがその目を見ているのに気づいて笑った。「変な目つきしてる?」「あー、そういうことじゃないんだ」進化論上、目の発生は難問だということを本で読んだのを思い出したんだ。突然変異と自然淘汰では、人間の目は説明できない、複雑な仕組みがぜんぶ揃って初めて用をなすから。レンガを放り投げていたって家ができたりはしない、たとえ何万年続けても。
「蛸とか、烏賊の目も同じなんだ」ぼくは考えている途中から言葉にするから、変だと思われることが多い。「ああ、カメラ眼ってことね」「そう。……軟体動物って、貝とかクリオネの仲間でしょ?」話が続けられるって変な女だ。「頭に足が生えてるからじゃない?」 一瞬そうかなって思ったけど、何の説明にもなってないよ。でも、頭に足があるって思ってたら食べられないよね。ユダヤ人みたいに。なぜ蛸とか食べないんですか? あなたたちが犬とか食べないのと同じです。気持ち悪いから? はい、何が気持ち悪いかを決めるのが宗教なんです。……
「あ、見えた!……すごいね。へー、へー」その感覚はわかるよ。「なんだろ。この感じって」女は黙り込んでしまった。「別にこんな絵じゃなくても、おんなじ写真が並んでてもできるよ」「そうなんだ、すごいね。でも、何だかよくわかんない絵からふいに見えるのって……ここに来るちょっと前の気分みたい」ああ、それもよくわかるよ。世界の真理を見つけちゃうと、ここに来ちゃうんだよね。あと、自分が神だってわかっちゃった人も5人はいるよ。
しばらく黙っている。ぼくは平気だけど、大抵の人はそれに耐えられない。沈黙と夜を嫌うのが外の通貨なんだろう。たとえそれが紙にすぎないってわかっていても、贋物なんだって灯台から叫んでも。紙幣を燃やしたことがあるかい? どんなにおいがするか、一生にいっぺんくらい試してみたらどうだい?
女もずっと黙っている。目は開いているけれど、夢を見てるようにも見える。それは比喩でもないし、めずらしいことでもない。ぼくもそういうことがある。周りの人や風景が夢の素材になっていく。夢を見ている自分と夢を作っている自分とがオウム貝のように巻き上がっている。暖かくて曖昧なお湯が底から湧き出している。……「歴史は才能しか愛さないの」泡のひとつが言う。太古の海には歴史なんかない。「死んだ人ばかり出てくる本のこと?」驚いたように、それからおびえたような目でぼくを見る。「もう、書かれてしまったの?」「さあ、ぼくは本を読まないから。ある時から読まないことにしたんだ」こういう言い方は、ここではそれ以上質問しないでっていうサインなんだ。ある時――ここに来たばかりの女もその黒々とした表現はわかっているようだ。そのまま立ってかたかたと島の歩哨のように歩いて行った。薬の副反応でうまく歩けなくなっているんだろう。
ある時、ぼくは死んだんだ。あとからそう思った。ここは古ぼけた死後の世界なんだ。そう考えればいろんなことがとてもうまく説明できる。とても安心できる。だからと言って、この世界が前のとどう違うのだろう? でも、そんなことを気にすることはない。記憶違いなんてよくあることだ。誰でも見慣れた家族や鏡の中の自分の顔にどうしようもない違和感を持つことがあるだろう。ぶーんと冷蔵庫の音が聞こえるよね。そういうときにぼくは右耳後ろ30センチくらいのところから、「あなたは死んだんですよ」ってささやいてあげる。誰かに押し付けられた贋物の記憶を燃やしてあげたい。つながりを断ち切って、体がすうっと軽くなるように。ママたちが「親切ね」って褒めてくれる。
医者に診てもらった方がいいって? 診てもらっているよ、毎日。「調子はどうですか?」「とてもいいですよ、先生」そのときだけぼくの眼を見るんだ。少しの間だけ。それから時々は、共通の趣味の話をする。ナースが呼びに来るまで。主治医は知っているのかもしれない。でも、死んで別の世界にいるって思ってませんかなんて訊かない。どんなところでも日常というものがあるんだから。蜘蛛がどんな場合でも巣を張るように。だから、ぼくも言わない。訊かれもしないのに他人の頭の中身を覗こうなんて、よけいなことだってわかっただけで、ぼくは利口になった。思いやりって、蛸がわずかな隙間から忍び込んで湿った足をからめるのに似ている。左右の視力の差が広がったのは、その代償なんだろう。
脳細胞が早く行こうぜって私のスカートの裾を引っ張ります。(^o^)
では謎かけの答え。
「絹糸のもつれたのとかけて」
「麻糸のもつれたのととく」
そのこころは
「木綿糸ももつれた」
これだけもつれたらどうにもならん。
というのが上方落語のネタにあります。
つまんなくてごめんなさ~い(*^_^*)
なんかすっきりしないオチのような、亡き枝雀師匠好みのシュールネタのような。すべての糸がもつれる前に、なんてね。
でも、未だに着地点は見えてこないですし、次回何を書くかも決まってない有り様です。