
イエス・キリストの十字架上の7つの言葉と言えば、ハイドンの管弦楽曲やオラトリオが有名ですが、その140年ほど前(1645年)に書かれた小規模ながら、優るとも劣らない傑作がシュッツ(1585-1672)のこの作品です。彼の約500曲の作品のほとんどが宗教曲で、バッハの生まれたちょうど100年前に生まれています。バッハという大海にそそぐ多くの川の中で、ルター派の宗教音楽(すなわち受難曲やカンタータといった全作品の過半を占める作品群)という流域の中心がシュッツであり、輝かしいドイツ系音楽の出発点でもあるのです。こうした歴史的重要性だけでなく、その内容的な厳しさにおいてバッハを超えるとすら感じさせるものがあります。
シュッツの生きた時代は、30年戦争(1618-48)の時代で、各国のエゴイズムと宗教的対立によって蹂躙されたドイツでは、一説によると人口が半減したということですから、その被害のすさまじさは想像を絶するものがあります。この作品のように死をテーマにした彼の作品がひときわ強く心に訴えかける理由は、おそらく直面した悲惨な現実にあると思います。
さて、この作品は受難曲のうちイエスの死の部分を言わば抜粋したような構成になっています。最初と最後に5声の合唱と器楽シンフォニアが置かれ、額縁のような役割を担っています。登場人物は、福音史家、イエス、一緒に処刑された2人の強盗で、イエスを見守る聖母マリア、マグダラのマリア、ヨハネを始めとする弟子たちは終始無言です。福音史家に様々な声部が割り当てられているのは、音楽的な変化を求めるとともに、教会に集った信者たちがルターが自国語に訳した聖書を輪読しているような趣を醸し出そうとしていると思えます。
イエスの言葉には常に高い2声の弦が伴奏され、光背を象徴していますが、これはバッハがマタイ受難曲で踏襲し、発展させた手法です。「我が神、我が神、なぜ私を見捨ててしまうのですか?」この言葉は受難物語のクライマックスであると同時に、おそらく信者でも解釈が分かれる個所ですが、シュッツは、バッハと異なり弦の伴奏を取り去っていません。バッハの採った方法は、音楽表現上の深化と見るのが常識でしょうが、宗教的情熱の低下、世俗化の進行の現われと見ることもできると思います。宗教曲の評価がシンフォニーの評価の仕方と違うのは当然ですが、オペラの評価の仕方とも違うと考えています。もちろん宗教的評価、布教に役立つかどうかなどとは、全く関係ないことは言うまでもないのですが。
シュッツについては、いずれまた他の作品をご紹介したいと思います。
わーい、やっとコメントが出来た(^_^)v
この頃は教会に所属して音楽を書くのは今の
公務員みたいな仕事だったから、宗教曲を
書くしか生活できなかったんでしょうけれど、
それにしても、飛び抜けて輝いている曲ですね。
透き通るような音。聞いてて思わず涙が出ます。
当時の磔という刑は日本の物とは違った、もっと
残酷なものだと聞いたことがあります。キリスト
は十字架に釘で両手両足を打ち付けられる前に、
足の骨を折られたとか。他の2人の死刑囚以上に
苦しみを味わわされています。両手両足を貫く
釘の痛み、骨折の痛み、そして死因となる窒息の
苦しみ。
これに加えて、永遠に受ける地獄での苦しみ。
私たちが受けるべき罪の代償はそれほど大きいと
いうことでしょう。
心してキリストの言葉を聞くように。
ぴのこちゃんをイジメめたらダメだよ(^O^)
バッハの前にこんな人がいたなんて!
ビックリ。
夢のもつれさんのブログは勉強になります。
地獄なんてありませんよ。いい人には悪いことは起こらないと、処刑を前にしたソクラテスは言っています。
かわいい子をいじめたりしませんよー。
直接には彼からは何も生まれていませんし、ましてやヘンデルと夫婦関係はありませんw。
シュッツに限らず、バッハ以前にすばらしい作曲家はいくらでもいますよ。
良く生きた者だけが良く死ぬことができるともソクラテスは言っています。
なんて言ってる自分がいちばんダメですけど。
良く死んでいった人は見たことない。
みんな明るくふるまったり、受け入れたよう
な振りはするけれど、どこか不安そう。
なんでだろう。みんな一生懸命生きてきたは
ずなのに。
「死にたくない、死にたくない」と言ったそうです。これも凡人ができることではないかもしれません。
私自身は、まあ一回しか死なないんだから、思いっきりじたばたするかなぁって、今んとこ考えてますけど。