6 二人の美女へのお賽銭~OFFERTORIUM
正月の親戚の連中による試奏が成功したのに宇八は気を良くして、その後も順調にスコアにする作業が進み、ひとまず「入祭唱」、「キリエ」、「怒りの日」の前半、「サンクトゥス」については完成したので、その月の終わりのミサに出て、ルーカス神父に見せることにした。栄子について行ったので、宇八も最初から参列して舟を漕いでいたが、途中から右の後ろの方でなんとなく春めいた靄のようなものが立ち上っている。ミサが終わるやいなや振り向くと、時木茉莉によく似ているが、明らかに違う艶めいた雰囲気の娘である。あの夏の夜のことが夢だとしても、これは現実の百合だと直感が告げている。おあつらえ向きに向こうから、
「羽部さんですね。あの、妹がお世話になっておりますようで」と婉然と微笑む。柳の枝が揺れるような身のこなし、甘えたような言葉遣い、目元にわずかにかぶさった前髪、少し開いた口元、ストッキング越しでもなめらかさがわかるような脚等々、教会で見るには罪作りな色気を四方八方に撒き散らしている。
栄子が袖を引くのもかまわず、レクイエムのことなどすっかり忘れてふらふらと百合の後を追うと、彼女は神父に下から見上げるようして、
「あの神父様、いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」と訊く。
厳寒の候なので頑健な神父も急な風邪を引いたのか、2、3回咳をしてから、百合の質問に丁寧なのか、素っ気ないのかわからないような答え方をする。それを我々の主人公は、妻子には見せてはいけないようなぼおっとした表情で見ている。
ルーカス神父がもう一度咳払いをして、「さて、羽部さんもわたしに何か?」と訊いたので、栄子があわてて、「いえ、夫が何か見せたいと申しておりまして」と答えた。
それでやっと目が覚めたような表情になった宇八は、小脇に抱えたスコアを説教壇に広げて、説明を始めた。神父も内容はともかく、善き信者の善き行いであるから熱心に聴く。宇八としては百合の前で早速いいところを見せようと思っていたのに、あにはからんや、むずかしそうな話ですねといった表情を浮かべて、睫毛の影を見せるような目礼をして去ってしまった。
では、神父がスコアに目を通している間に、宇八のレクイエムの内容をざっと紹介しよう。このレクイエムは、シュッツの『音楽のお葬式』にヒントを得ながら、レクイエムの歴史を現代から過去へ遡っていくような構成を取っている。
冒頭の『入祭唱』はドイツ語音名で、HABE D/HABE G/HABE H、ドレミで言うとシラシ♭ミ レ/シラシ♭ミ ソ/シラシ♭ミ シという主題を持っている。これは、”Ich HABE Dich. Ich HABE Gott. Ich HABE Herr.”(わたしにはあなたがいる、神がいる、主がいる)を表しながら、最終音が徐々に高くなるのにつれて、あなたが神であり、主であるというふうに次第に信仰が強固になっていくのを示すという趣きになっている。もちろんルーカス神父が羽部という苗字について行った指摘がこのいささか図々しい主題を導き出したのであった。
彼のこの基本音型の展開とアンサンブルには、武満徹の『弦楽のためのレクイエム』のイディオムが借用されている。したがって、声楽は入らずに武満のように言葉でつなぎとめられないイメージを繰り広げていかなくてはならない。ただグレゴリオ聖歌の『入祭唱』の旋律が切れぎれにヴィオラとチェロといった内声部で奏でられ、これに合唱が『言葉にならないかすかな声を重ねる』とスコアに注記されている。
次の『キリエ』には、ショスタコーヴィチの交響曲第14番『死者の歌』に依拠した、黒々とした死への恐怖と引きつったようなユーモアの漂うものになっている。『キリエ』の伝統的なスタイルにより、弦、木管を従えた合唱を中心に進むフーガを金管の奏でるHABE Dの音型が打楽器とともに鋭く3回断ち切る。ここでは「あなた」は決して神や主に昇華していかない。唯一無二の存在は感じられているものの、それが神や主であると言明されたとたんに嘘臭くなる。信仰の土台となる共同体がもはや存在しないのである。編成はおおむね二管編成だが、木管にはバスクラリネットが追加され、打楽器はティンパニにマリンバと3回目にはひび割れた鐘が加えられている。
3番目の『怒りの日』の前半はヴェルディふうというか、アフリカ象の群れが暴れまわるような大音響を更にハードロックで味付けしたという代物である。三管編成のフルオーケストラとオルガンの盛大なトゥッティで始まり、途中でエレキギター、エレキベース、ドラムスとヴォーカルのロックバンドに交代し、オーケストラでは不可能なキレとノリのいいビートとリズムを刻む。いやはや『ギターがヘヴィメタルなアドリブを撒き散らしながら、リードヴォーカルがヨハネの黙示録から好みの一節を四声部の合唱が歌う典礼文を打ち消すようにシャウトする』といった書き込みすらある。
第3節の”Tuba mirium”(不思議なラッパ)の個所では、別に用意されたブラスバンドが活躍し、『酔っ払いのマーチ』というどんちゃん騒ぎを始める。
後半の第12節”Ingemisco tamquam”(罪を負うわたしは嘆く)以降はどうしても筆が進まず、センチメンタリズムを無理に押し隠した厳格なイメージのブラームスふうでとしか考えていなかった。
この後の『サンクトゥス』はモーツァルトの『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』の重唱をまねて、陽気で、機知に富み、しかも各人の性格がくっきりと浮かび上がる四重唱を目指したものになっている。4人のソリストが代わるがわるラテン語典礼文を歌うのだが、時にさっと転調して一人が” Ich habe ……”とドイツ語で歌いだそうとすると、他の3人が驚いたり、たしなめたり、皮肉ったりといった多様な表情を見せる。オーケストラも二管編成の小規模なものに再び縮小されている。全曲の構成としても登場する楽器や合唱は『怒りの日』を頂点に両側は次第に少なくなるというシンメトリーを基本にしている。曲の終わりに向かって盛り上がっていくというのは、19世紀前後だけ流行した時代遅れの美学であり、レクイエムにはふさわしくないと宇八は考えていたのだった。
ちなみにモーツァルトのレクイエムは、『怒りの日』の途中で彼自身の筆は止まっており、『サンクトゥス』もそれ以降の部分も、ふつう我々が聴くものは夫の遺作を完成させようとしたコンスタンツェの依頼を受けて、弟子のジュスマイヤーが作曲したものである。このため、モーツァルト自身が筆を執った部分とはるかに才能が見劣りするジュスマイヤーが手掛けた部分とを厳密に分けるべきだといった論争が学者などによって行われている。ただこれに関する我々の主人公の考えは、単純かつ伝統的なものであり、ジュスマイヤーの補作をそのまま受け入れるという立場であった。その理由は、ジュスマイヤーの魂も彼の愛した先生と同じところに葬っておいてあげたいからということだった。
神父がところどころ楽譜に手を触れて口ずさむようにしながら、大体目を通したのを見て、まだ書いていないところについて早口で説明した。
「次の『アニュス・デイ』は、かなり時代が飛んじゃうんですが、シュッツ流に、大理石の彫像なのに肌のぬくもりが感じられるようなあの感じが出せればいいなと。最後の『コンムニオ』はヴィクトリアの生命感、若木がみるみる大木に伸びていくような力で始まって、その熱が徐々に冷めてグレゴリオ聖歌ふうの純正律の響きの中で、HABEの音型だけが残り、消えていくっていう仕掛けで考えてるんですがね」
「とてもおもしろいです。すばらしいです。すぐにも上演したい、耳で聴いてみたいですね。……ただカトリックの神父の立場からは……」
「ああ、わかってますよ。『怒りの日』はもう演奏されないんですよね。実際のミサに使うんならカットすりゃあいいんです」
第2ヴァチカン公会議はラテン語の原則廃止とともに、『怒りの日』のような『続唱』を典礼書から削除する決定をくだした。憶測するところ、『怒りの日』の中の黙示録的な内容、恐怖や神秘で人を信仰に引き込もうとするような内容が、ローマ・カトリックの現代化の流れにそぐわないからだろう。しかし、モーツァルト、ベルリオーズ、ヴェルディを始めとする、多くのレクイエムの傑作、名作において『怒りの日』が中心的位置を占めていることから言うと、この決定がよかったとはなかなか言えないのである。どちらかというと、こういうローマ・カトリックの変容について、我々としては“脱魔術化”とか“官僚制の進行”という面からマックス・ヴェーバーに分析してもらいたい気分である。
ただルーカス神父が言いたかったのは、別の点であった。
「いえ、それはいいのですが、ミサではオッフェルトリウム、奉献唱がとても重要なのです。これをぜひ作曲していただきたいと」
「はあ、そうですか。いや、これは大事かなという気がしないでもなかったんだが、意味合いがよくわからないんで」
「ここまでで言葉の礼拝が終わって、ここから感謝の儀式になりますが、この中に神との約束、契約が語られているのです。この『アブラハムとその子孫に約束された』という……」
「なるほど”promisisti”か。だから繰り返されているのか。アブさんの子孫なんかになった覚えはないが、まあでもお蔭でよくわかりましたぜ。……だが何をモチーフにしようかなあ。ブラームスとモーツァルトの間か。ベルリオーズは流れに合わないし、『ディアベリ変奏曲』のベートーヴェンはレクイエムを書いていないし」
「シューマンはどうですか? 雨の日の新緑、そういう感じがしませんか? 彼のレクイエムは」
「そうですか、そんな感じですか。やってみましょう」
「わたし、羽部さんのこの作品、とてもいいと思います。でもとても大規模で……演奏するのに準備も大変です。たくさんおカネもかかります。いろんな人の助け必要です。……わたし時々東京へ行って聖書を読む会に参加しています。その人たち、助けてもらえるでしょう。この作品をお見せしていいでしょうか」
コピーを取ってきますと言って奥へ入って行った。宇八は栄子をにやにや見ながら、
「どうだ、おまえと違って、わかる人にはわかるだろ? とんとん拍子に演奏ってなもんだ」と言うと栄子は、
「あたしは別に反対なんかしてないわよ。生活のことも少しは考えてって言ってるだけよ。いくらいいものでもかえっておカネがかかるようじゃあ……」と応じた。宇八はうきうきした気分を害されたので、うるさそうに手を振って相手にしない。気まずいような沈黙がかなり長く続いて、神父が「お待たせしました。コピー機とても調子悪いのです」と言って現われると、宇八は「じゃあ、完成を急ぎましょう」と言うと、栄子が丁寧にあいさつするのをおいて、さっさと教会を出た。
来月モーツアルトのレクイエムに挑戦予定です。