このブログで絵画について書き始めた頃(4/19)、フェルメール(1632-75)の「ミルクを注ぐ女」を採り上げました。あの絵については誰しも理解に困難を感じることはないでしょう。描かれているものは明白ですし、「解釈」を要するような事物はそこにはないからです。それに対して、この「画家のアトリエ」は何らかの「解釈」がないと絵に入っていけないと感じさせるものがあります。二つの絵の距離は遠いように思われます。
フェルメールの絵にはアレゴリー(寓意と訳せばいいでしょうか)を多く含むものがあって、この絵はその代表的なものでしょう。おおざっぱに言えば画家が室内でモデルを見ながら絵を描いているところということですが、まずはそのモデルの格好に注意を向けてみましょう。彼女は月桂冠をかぶっていて、トランペットと大きな本を持たされています。これらから芸術の神ミューズのうちの歴史を司るクレイオに扮していると言われます。この“歴史”をキイワードとして他のものを見ていくと、後ろ向きの画家は当時としても古風でかつ改まった服装をしており、背後の壁に掛かる大きな地図は1581年のネーデルランド分割以前の17州が描かれています。つまりこの絵が描かれたと推定されている1665年頃よりも前の、フェルメールが生まれる以前の母国の栄光の歴史とそれを恭しく描く画家といったものが浮かび上がってきます。
この辺まではこの絵を観るときの前提となる知識として持っていた方がいいでしょう。逆にそれ以上のことはそれぞれの人の解釈にすぎず、「そうとも言える」という域を出るものではありません。宗教画において、青い服を羽織っていれば聖母マリアだとか、骸骨は人生のはかなさや時間を表しているといったことがアレゴリーですが、そういった約束事のようなものは知っておいた方が便利ですし、知らないと「ああ、きれいですね」以上の理解にはなかなか進めないでしょう。そうした絵解きだけで終わる絵もたくさんあるのですが、いわゆる名画にはそれ以上のものがあって、その言葉では言い表せないところこそが名画たる所以です。いくらうまく「解釈」しても現物ほどの生命力はないのですから、そんなものに振り回される必要はありません。こんなことを言うのは、この絵がアレゴリーに満ちているだけに実に様々に解釈されているからです。いやこの絵のみならず、フェルメールの絵が謎めいているだけに多くのお話が作られてきました。
さて、こうしたお断りをした上で、私の「解釈」を述べてみましょう。それはこの絵はフェルメールの自画像だということです。顔が見えないのに? そうですね。画家が自分を絵の中に描き込むことはしばしばありますが、この絵のように後ろを向いて全く顔を見せないのはあまりないように思います。それだけに意図的なものを感じますし、画面全体が画家の素顔を映しているという印象を持ちます。モデルの前の机の大きなマスクも同じような隠そうとする意志と隠されたものへ関心を向けようとする意図がありそうです。
画家は細かいところを描くときに使う腕鎮を使って月桂冠を描き始めていますが、最初からそうした支えが必要なものでしょうか。自国の歴史に支えられて、自分を描いていくという謙虚な、しかし自負心に満ちた決意を寓意するようにも感じられます。引き開けられ始めたカーテンの向こうから、ドラマの舞台が今、見えてきたのであり、まだすべては見えてはいないと考えてはどうでしょうか。……
最初に「ミルクを注ぐ女」とこの絵がかけ離れたものであると言いましたが、それは表面的なものであり、どちらの絵も見る側がいくらでも想像を膨らませることができます。それはまた同時に決して画家が描こうとした真の意味は明らかにされないという、フェルメールの傑作の特徴を備えていると思います。
夢様の絵画ものは必要な知識を満たしてくれて見る人の自由度も与えてくれる素晴らしいナビゲーションだと思います。引き続き沢山の絵画紹介をお願いいたします!
お客さんを案内する必要上、ちょっと勉強しただけですが、現地にずっと住んでいる人でも知らない人は全然知らなかったですね。