その次には電話のベルで目が覚めた。ホテルの電話のベルというものは、音が小さすぎるか、大きすぎるかのどちらかだ。この時には、後者の方で、びくっと飛び起き、電話の向こうで植村がかんかんに怒っているような先入感を持って、
「あ、すみません」と出るなり謝ってしまった。
「伯父さん、どうしたの? おはよ、もう10時だよ」
「ああ、おはよ。二度寝しちゃったよ」
「昨日の晩、遅かったんじゃないの?……まあいいけど」
「そうさ。内政不干渉で行こうぜ」
月子との電話が終わって、植村に電話してみるが、やはり出ない。仕方ない。二人とも用事はもうないが、何も急いで帰ることもない。だが、どこかに行く当てもないといったところだった。それで東京タワーに行った。二人とも「これじゃ、田舎者丸出しだね」とか言っていたが、行くのは初めてだった。
スプレーのような雨が降っていた。傘を差すほどでもないのかもしれないが、差さないといつの間にか服がしっとりと湿ってしまうような降り方だった。平日の午前中なので展望台にも人影が少ない。すぐに別料金を払って上の展望台へ行った。「お上りさんならお上りさんに徹しないのは、おれの主義に反する」とかなんとかぶつぶつ言っていた。月子は別に照れることもないのにと思っていた。上の展望台から見るとかえって雲だか雨だかにけぶって、街がよく見えない。筑波山とか富士山とかが見える方角が示してあるが、新宿や渋谷だってわからない。二周半回って、どちらからともなく降りようということになった。下の展望台の方が人も多く、景色もずっとはっきり見える。
「あっちが新宿で、そうすると左の方かな? 高円寺は」
「昨日はそこへ行ったのか?」
「うん。小さなライヴハウスだけど、もう満員でさ。すごいよ、燃えたよ。久しぶりに頭吹っ飛んじゃった」
「おまえも歌ったのか?」
「まさか。でも客が帰ってからちょっとね」
「で、東京に住むのか?」
「彼と同じこと言わないでよ。もう昨日の晩、そればっかなんだから」
「そうか。じゃやめよう。……どう見える?この街」
手すりの向こうに子どもがするように少し身を乗り出して言う。
「どうって、ただごちゃごちゃビルがあって、車が走ってて。……でもその中にたくさん人がいるのかなって」
月子は身体を斜めにし、まぶしそうな目で言う。
「そのとおりだ。おれたちは今、鳥が見ているような風景を見ているんだ。……この街は機械と人間とカラスの街なんだ。これからもっと機械が増える。コンピュータみたいな人間に近い機械だ。だから人間はもっと機械に近づく。でもそれをカラスは、ふーん、でもぼくらもいるんだよねって思いながら、風を翼に受けて飛んでいるんだ」
「伯父さんって、やっぱり変な人だ」
いつもどおりニコニコしながら言う。
「まあ、いいさ。でもな、機械になりかけているなら、それでいいじゃないか。だから、本当に困って行き詰まった時は、機械みたいに『動作確認』しろよ。呼吸はしているか、よし。心臓は動いているか、よしってな。ちゃんと手を当てて確認するんだ。それからまた始めるんだ」
言い終わるとすぐにエレヴェータに向かって歩き始めていた。
東京タワーの下で、植村に電話したらやっと通じ、簡単に昨日の詫びを言った。彼女は彼の急用を思い出したのでという言い訳を事務的に「そうですか」と聞いただけだった。
雨の中をもう行きたいところもないので、東京駅の地下街でハンバーガーを食べてから、新幹線に乗った。座席に座ると、宇八は輪子へのみやげに買った東京タワーのミニチュアの付いたボールペン(とても彼女が喜ぶとは思えないが)で、ハンバーガー店のチラシの裏に『アニュス・デイ』のスケッチを書き始めた。ミニチュアが付いているのでペンのバランスが悪いし、チラシは油染みが付いていて書きにくかったが、他に筆記用具がないから仕方がない。線の曲がった五線譜に音符を書き込んでいくのを月子はあきれたように見ていたが、何も言わなかった。一段落して、宇八がタバコに火を点けたところで、話し掛けてきた。
「ねえ、お札が新しくなるって知ってる? 朝、テレビでやってたんだけどさ。一万円札が福沢諭吉になるんだって。えーと、夏目漱石も出るって」
「ふーん、知らなかったな。漱石が五千円なのか?」
「いや、別の誰か知らない人だったんじゃないかな」
「じゃあ、どっちにしても聖徳太子はいなくなるんだ」
「まあ、何年か先みたいだけど」
「ふうん。……前に千円札が変わった時、おまえまだ子どもだったかな。お札がそれだけいっぺんに変わるとおもしろいぞ。新しいのはおもちゃみたいで、全然おカネに見えないんだ。ただの紙だ。でもしばらくするとちゃんとおカネに見えてくる。その感じは、神がただの人になるのと同じだな。おカネも神様も後光があるんだ」
この物語の終わりの時期より後、1984年11月に実際に新紙幣に切り替わった時、月子は伯父との会話をいろんな意味での予言だったように感じることになる。