自画像の名手はレンブラント(1606-69)とゴッホだと私は思います。確かあの駅舎を改造したオルセー美術館だったと思いますが、そこで見たゴッホの自画像は向こうからゴッホが睨みつけているような恐ろしい眼光を放射していました。その精神の燃焼力の凄まじさと自分で耳を切り落とした直後の「パイプをくわえた自画像」の精神の荒廃との落差は痛ましい限りですが、彼だけが描きえた人間の心の解剖図とでも言うべきもので、不朽の業績だろうと思います。
ゴッホほど過激ではありませんが、レンブラントの人生そのものを感じさせるような多くの自画像も深く心に染み入るものです。売れっ子画家だったのが「夜警」(1642年)のような“芸術性”を優先した絵画を描いたため人気が凋落し、元愛人への慰謝料の支払いなどもあって破産の憂き目に会ってしまったとのことです。「夜警」は描かれた人物たちが割り勘で注文したにもかかわらず、同じ大きさでもないし、顔が隠れている者もいるといったことから裁判沙汰にまでなったそうで、代表作でもちろん自信作でもあったであろう作品をきっかけにつまづいていくというのは、最初から画壇に相手にされなかったゴッホやセザンヌとはまた違った苦悩があったでしょう。
レンブラントの作風を年代順に見ていくと、「トウルプ博士の解剖学講義」(1632年)の迫真的な描写力でデビューしたのが、「夜警」では光と影、精密と省略のコントラストによって画面構成を中心に置いて絶頂期に達し、その後は徐々に省略が画面全体を被っていったように感じます。
若い頃の自画像は、新進気鋭の画家としての自信にあふれ、鼻持ちならない人間だったのかなと感じますが、落ちぶれた後のこの自画像(1652年)などは見ているだけで彼の味わった悲しみと喜びが思いやられるようなもので、見ているうちに不覚にも落涙してしまったことがあります。他の絵ではいくら名画でもそういったことはほとんどないのですが。……自画像というのは最も内向きの題材であるわけですが、それだけに優れた作品は見る側を引きずり込んでしまうところがあるのかも知れません。
レンブラントはこの作品の後も自画像を描いていますが、もっとラフな感じの筆致になり、老残といった趣が強くなってしまいます。この作品の質素な作業着を着てこちらを見る表情には強い意志も秘められているようで、彼の自画像の中でも最もいろいろなことを語りかけてくれるように思うのです。
海外の美術館だと皇室並みの貸切で見れるのに、日本人観光客はせかせかと見ていきます。スタンプラリーじゃあるまいしw。
日本での絵画鑑賞は満員電車みたいでちっとも落ち着きません。こぞって見に行く(私も…)のはよそものに群がる原始人みたいですが、日本人の美意識が高まってきたともとれます。いずれにせよ、皇室みたいに貸し切りで鑑賞してみたいものです。
ウィーンのレンブラントの自画像とフェルメールの「画家のアトリエ」はわきの小さな部屋に掲げられていて、しかもごく近いところにあります。ですので、誰もいない中でゆっくりと対話することができます。
耳付きゴッホの自画像をゴッホ展でみましたが、耳があったとホッとしたのを覚えています。耳なしを見るのは勇気がいりそうです。。
画像でも眼光ビームが来るのですから、レンブラントのホンモノはすごいオーラを放っているのでしょうね。涙されたというこの絵は、いつか必ず見てみたいです。
ドレスデンというとフェルメールの窓際で手紙を読む女ですか。あの絵も傑作中の傑作ですね。
レンブラントはこのようなお顔だったのですね。もっと丸い感じの人だろうと思っていましたが、なにか挑んでいるかのような眉間のしわ、引き結んだ口、漆黒の瞳からは眼光ビームが飛んで来ました。
上野のドレスデン、そろそろ行ってこようと思います。