我々は再び77年に目を向けよう。ルーカス神父との短い会話以来、宇八はミサにはもう行かずに何ごとかやっている。図書館から何冊も本を借りてきて読みふけったり、大きなレコード店でレコードを買い込んで聴いていたり、輪子の使っていた鍵盤ハーモニカやリコーダーを時折鳴らしながら、ノートに表や図をこちょこちょ書いていたりする。楽譜? いやそうではない、今のところは。少なくとも……
宇八が行っていることが一段落するまでの間(ほぼこの年の終わりまでという意味になるのだが)、見落としがちな彼の一人娘の輪子に注目してみよう。彼女ももう13歳になっている。中学2年生である、危険な年齢、従兄弟たちのような『はしか』にかかりやすい年齢に差しかかっていると言ってよかろう。表面的にはあまり変わらない。胸がふくらんでも、他のところがまあどうなっても、手足や腰には曲線が描かれていない。そう、おとなと子どもの混ぜこぜなのである。小柄で両親のどちらにも似ていない無口な性格は以前と変わらず、栄子の陰にいつもいるような感じで、学校でも活発で目立つ子の陰にいて、皮肉屋の男の子に『助手』とか呼ばれていた。父親もこの子は羊のようにおとなしいと見ていた。
しかし、輪子はじっと見ていたはずである。この物語のもちろんすべてではないにせよ、かなりの部分を。そして、これからしばらくもそうであるように我々には思える。輪子はいつ、どうやって自らの『危機の時期』を乗り越えたのか、あるいは乗り越えるのか。これは彼女が目立たないだけに、我々としてもそれとして指摘できるかどうか、自信が持てない。乗り越えてしまってから、すなわち変化を遂げた後になって、ほら彼女はもうおとなですよと言えるだけのような気がする。それがイモ虫だったのが蝶になりましたよということになるのか、おとなしい羊だったのが猛々しい山羊になったということなのかは、わからない。そういう意味で、輪子はまだ変化していないということしか言えない。
彼女は考えていないわけではない。母親よりも、ことによると父親よりも物事をよく見て、深く考えているのかもしれない。しかしながら、それはまとまったものではない。自分でもはっきりとした方向をもって考えることができないことを自覚している。自分に自信が持てないせいかも知れない。自分を主張することで、周りが様々な反応をし、結局は誤解されてしまうだけなのが予めわかってしまうからかも知れない。鈍重だと思われているのであればそれを強いて否定する必要を今は感じない。……このようなものではないだろうか、ある種類の人の思春期とは。
主人公の宇八に戻ろう。彼は今、自称『泉のごとく湧き上がる楽想』を書き留めるのに忙しいらしい。五線譜に取りかかり始めるや、ほとんど手を止めることなく、食事の間と3、4時間眠る以外、ずっと音符を書き続けている。50をとうに過ぎた妻子持ちが一文にもならない作曲に没頭しているのだから、困ったものである。怒りとともに書き始めたのであるが、いやはやあの時の怒りは彼の中で気に食わない連中を焼き尽くさんばかりの激しい炎のように燃えさかり、こんなはた迷惑な結果を招いていた。今は涙を流しながら音符をしたためたり、愉快そうに鼻歌混じりだったりといった具合で、そういう面でも子どもっぽいと言うか、まともではない。……
こういう人物のそういう作品を我々としてどこまでまじめに取り上げるべきなのか、議論が分かれるところかもしれないが、全く無視するわけにもいかないだろう。必要な限度で、変に詳細になって退屈にならないよう留意しながら紹介することにしよう。彼の書いていたのは、『ジャパン・レクイエム』という気恥ずかしくなるような大げさなタイトルの作品だった。しかし、急いで申し上げておくと、これはブラームスの『ドイツ・レクイエム』と同じく、(通常のラテン語ではなく)日本語を歌詞としたレクイエムという意味に留まるのであり、日本という国とか、日本人とかへのレクイエムといったようなあやしげな意味は断じて持たないのである。この点は我々としても厳に言明しておきたい。
順序が逆になってしまった。レクイエムとは何かの説明が必要だろう。レクイエムは、カトリック教会で行われる様々なミサの中で、死者のために行われるミサ(特定個人の葬式や追悼式、亡くなった信者一般に対する追悼式などがある)のための曲を特にそう呼んでいるのである。なぜそのように呼ばれるかというと、そのラテン語の歌詞の冒頭が”Requiem aeternam”(永遠の安息を)で始まっているからである。
レクイエムが演奏されるミサは、他のミサと若干典礼の式次第が異なっているのだが、そもそもカトリックのミサがどんなものかについて、大方はご存知ないだろうし、ご関心もなかろう。そこでレクイエムの各曲のラテン語名と日本語名だけ掲げておく。
INTROITUS(入祭唱)、KYRIE(キリエ、これだけはギリシア語である)、GRADUALE(昇階唱)、 TRACTUS(詠唱)、DIES IRAE(怒りの日)、OFFERTORIUM(奉献唱)、SANCTUS(サンクトゥス)、AGNUS DEI(神の小羊)、COMMUNIO(コンムニオ)
ここまでがミサ本体で、日本仏教の葬式か法事と思ってもらえばいいだろう。ミサを司る司祭がミサの式次第に沿って、まあ信者でない我々から見れば退屈なこと(お香を焚いたり、コップを上げたり下げたり、聖書を朗読したり、信者に煎餅のかけらみたいなのをもったいぶってくわえさせたりといったことである)が種々行われる。その合間に各曲が演奏されるのである。さらにそうした式典本体の後にも若干の楽曲がある。葬式の場合には、柩の前で行われる赦祷式の際には LIBERA ME(我を解き放ちたまえ)が歌われ、柩を墓地に運ぶ際にあたかも日本の挽歌のような感じで、IN PARADISIUM(楽園にて)が歌われる。
カトリックのミサは非常に長い歴史を有し、レクイエムも優に千年を超える伝統を持つだけに、その内容も多くの変遷を経ている。いわゆるグレゴリオ聖歌が根本にあるのだが、各時代の作曲家はその伝統を踏まえて(踏んづけているものも少なからずあるが)、自らの個性を発揮している。いずれにしてもほとんど同じ歌詞により、これだけ古くから多くの作曲家によって数々の傑作が生み出された音楽のジャンルは他にはない。ただ各曲全部を作曲した者はほとんどいないようである。
ほとんどの芸術ジャンルにおいてそうであるように、最初の頃は作曲した者の名前は残っておらず、もちろんグレゴリオ聖歌は教皇グレゴリウス一世が作曲したのでもなんでもなく、編者としての役割も限定的と言われている。教会と信者という共同体自体が作曲家であり、それが共同体の中で歌い継がれる幸福な時代だったのだろう。同様に最初に個人としてレクイエムを作曲した者も、薄暮の中の人を見分けるときのようにあいまいであるが、15世紀、ルネサンス期のフランドル地方出身の者によってといったところであるようだ。この時期のものは、自分で作曲しなかったところは実際のミサではグレゴリオ聖歌が使われることになっており、ミサのための音楽という実用性を忘れることはなかった。
17世紀以降のバロック期に入ると、こうしたことから少しずつ離れ、自らの芸術的霊感の赴くままに作曲するようになっていた。簡単に言ってしまえば、『怒りの日』のような劇的な歌詞を持つ個所、おいしいところだけつまみ食いするという傾向が現われ、18世紀後半からの古典派、ロマン派の時代においては、教会以外の場所で演奏会用に大編成のオーケストラのために作曲されるものが多くなった。ベルリオーズのように最低400人という巨大な編成と典礼文もあちこちに飛ぶという離れ業が行われたり、ルター派の勢力下にあるハンブルク出身のブラームスのようにラテン語のミサ典礼文から離れて、自分でルター訳の聖書から好きなところを引用して作曲し、『ドイツ・レクイエム』として発表するという、考えようによってはずいぶんなことも行われるようになってきた。
歴代のローマ教皇は、音楽は典礼に従属すべきものとして、典礼文が聴き取りにくくなるような音楽的装飾を終始嫌っており、音楽独自の発展は忌避されていたが、時代の変化とともにそうした制約が徐々に弱くなるとともに儀式性が薄れ、個人の信仰心に訴えかける方が真実味があるように思われてきたのだろう。
後期ロマン派から20世紀の音楽となると、ミサの典礼と関係がある方がめずらしいようになってきて、レクイエムは単に『死者を悼む宗教っぽい曲』というような内実になった。そう、カトリック教会への信仰心も既になく、死と死者への感情、情緒だけが残ったのであり、それにもかかわらず伝統があってありがたみが感じられたのか、レクイエムというタイトルは好まれ続けた。
さあ、もう十分退屈させてしまっただろうし、我々の虚栄心も満足したのでこれくらいにしよう。そこで宇八の作曲内容であるが、基本的にはカトリックの典礼に沿ってと考えており、そうでなければレクイエムなどと言わない方がよいと考えたからである。また、1962年からの第2ヴァチカン公会議によって、ミサは原則として各国語を用いて行われることになった(公会議はローマ・カトリックが大きな方針決定をするときに教皇が招集するものであり、この点以外にもこの公会議ではレクイエムに大きな影響を与える決定がなされているが、それについてはまた後で述べたい)。この方針に従ったというわけでもないが、ふつうの人が聴いてわからないものを作る必要はないと思い、日本語で作曲することにした。こうした点はブラームスとは似て非なるものであろう。
それがタイトルの由来であるわけだが、その日本語訳となるテキストにはほとほと困ってしまった。ラテン語の原文を少し理解すると、宇八の目からは教会が使っているものはもとより、他の訳もとても使えない。例えば”Dominus”はキリスト教で神の意味の場合にはふつう『主』と訳されている。だが、『しゅ』ってなんだ? 『おぬし』や『ぬし様』なら時代劇とか都々逸に出てくるから、意味はわかる。『しゅ』と音読みなら、『主人』とか『主君』とか何か続かないと変だ。英語だって、ドイツ語だって、日常のふつうの言葉が当てられている。……まあこういう調子なので、曲の構想は進んでもなかなかオタマジャクシが書けなかったのである。
そこでいつものように先へ行ってから考えることにした。具体的にはラテン語のテキストに曲を付け、後で適当な(どうせ適当でしかないのだから)日本語訳を自分で考えることにした。これで『怒りの日』を皮切りに作曲は順調に進んだ。……彼は音楽の専門教育でも受けていたのかと問う人がいるだろう。全くない。ずぶの素人である。今までだって造形芸術の心得や電子工学の素養などなかったのに、オブジェを造ったり、ロボットを作ったりして、しかも商売にしようとしたのだった。いつもやりたいことが決まってから、専門書を「ふんふん」と言いながら斜め読みするだけだ。なんたる無謀、向こう見ずだろうか。
そうした不眠不休に近い状態でムダとしか見えないことをしている夫を妻の栄子は、心配そうに、だがヘタに声を掛けようものなら震え上がってしまうような怒り方をされてしまうのがわかっているだけに腫れ物に触るようにして、見守っていた。輪子は無関心だったと思うが、わけのわからないものの虜になってしまった父親に対して心なしか憐れみの色を目に浮かべていたようにも見えた。身から出た錆とは言え、誰だって彼の家族には慈悲の念を抱き、おだやかに休息できる時間があればと思うのではないだろうか。