9/10にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮で、ブラームスの交響曲第3番、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏はアリョーナ・バーエワ)、ショスタコーヴィチの交響曲第1番です。
ブラームスの出だしはおとなしめなのに音(特に木管)がとがっているように感じました。ブルックナーを髣髴とさせるようなもやもやしたところからテーマが立ち現れて来ますが、やっぱりブラームス的な逡巡といったところで、徹底性や突き詰めた表情は良かれ悪しかれありません。
第2楽章を聴いていて思ったのは木管が好きな人だなってことでした。別にいつもいつも木管から入るわけではありませんが、イニシアティヴのかなりの部分を握っている気がします。それを別の角度から言うとエキゾティックな雰囲気がそこはかとなく漂うということになるでしょうか。まったりとしすぎてて集中力の維持がむずかしい楽章でした。
第3楽章はとても有名なメロディが中心となるポコ・アレグレットです。ダイナミック・レンジが広くて聴きやすいんですが、この交響曲にはスケルツォがないことに気がつきました。おそらく(というのは客観的には言い過ぎで、単なる私の妄想ですがw)ブラームスは最初スケルツォを書こうとしたんですが、あんまりいいメロディが出て来たんで、うれしくなってこうしたんでしょう。彼は日頃からメロディが思うように出て来なくて悩んでいたんですね。ブルックナーのようにメロディなんかどうでもいいと吹っ切ればいいんじゃないかと思いますし、ましてやドヴォルザークを羨ましがる理由も私にはわからないんですけど。
それはともかくスケルツォ、あるいはそれに近いものがないためにこの交響曲はユーモアを欠いています。私は歴史上メヌエットからスケルツォに替わったことで、内容的にいちばん大きな意味はユーモアを構造に組み込むということだったんじゃないかと思っていますが、そんなことでこの交響曲は自己陶酔がちょっと鼻につきます。ヘ長調、ハ長調、ハ短調、ヘ短調という各楽章の調性も巧妙というよりは「なんかねぇ」って感じです。
第4楽章はとても爽快な演奏でした。重くて早く、各声部がよく鳴って、わざとらしいほどのソロへの落とし方も鮮やかな印象です。コントラファゴットがチューバの代わりに使われているように聞こえて、木管への偏愛が明らかだと思いますが、「木造建築のブラームス」という言葉が「石造建築のブルックナー」との対比で浮かびました。
ここで休憩があって、シマノフスキです。3管というだけじゃなく、ハープ2台、チェレスタ、ピアノ、銅鑼、ヴィブラフォン、小太鼓、シンバル、大太鼓などなどとかなりの大編成です。ちょっと余談ですが、プログラムに楽器編成を書いていないのは毎度のことながら大きな不満です。当日のお客のための冊子でありながら、作曲家の伝記や作曲の背景なんて目に見えない、耳に聞こえないことに紙幅を費やしていながら、「あの楽器はなんだろう」という素朴な疑問に答えていないのは今流行の言葉で言えば顧客満足度を著しく下げています。まあ、音楽学者とか評論家なんて「教養主義」の枠内でしかものを考えていない人が多いし、よく似た表現をあちこちで見るんで、どうせグローヴ辞典あたりの翻案だろうなって思うんですが。「お客はそれで満足してる」という声が聞こえます。そりゃそうでしょう。でも、CSが客の入りやアンケートで「わかる」くらいなら誰も苦労しません。
ソリストのアリョーナ・バーエワが真っ赤なドレスで登場します。長身、美形で若さと自信にあふれたオーラが漂っています。「ペトルーシュカ」を思わせるような冒頭(ストラヴィンスキーの影響は戦間期の音楽において露わです)に続いて瞑想的なソロが入ります。トライアングル、タンバリン、サックスと言葉にすると知的な感じがしませんが、巧みで贅沢な使い方がいいなと思っているとドビュッシーのペレアスのような夢の世界に入っていきます。この辺で、この曲は協奏曲というよりは独奏ヴァイオリン付きの交響詩だと感じました。単一楽章らしい自由な(実際は綿密な)展開から言っても、装いのわりにやや時勢に遅れた内容も。
弱音のトランペットが表す遠くから(現実かもしれません)の呼びかけに応えて、ソロがスペイン風の踊りを披露します。ポーランドと言うとショパン、マズルカとかがクイズの解答としては正解かもしれませんが、私の印象ではコスモポリタンなイメージです。オケが頂点を形作って、驚くほど長い間があってカデンツァになりました。観客を引き付けるだけ引き付けて自分の芸を見せる度胸には恐れ入りました。そういえばスクロヴァチェフスキも自分の間合いでゲネラル・パウゼを取る人です。メトロノーム的な意味では間違っているんでしょうし、それで何か表現できるわけでないでしょうけど、長い休符に自分の意志をこめることはできるように思いました。そして、この日の彼女はそれを十分に表す(何の苦もなく難曲を弾ききるという)技量を持っていました。音があちこちに飛び交い、無調主義っぽいコーダで終わりました。理由はわかりませんし、どうでもいいんですが、アンコールがなかったのも彼女らしいなと思いました。
最後のショスタコーヴィッチはスクロヴァチェフスキの才能に感服させられ、指揮者でオケは変わるなと思いました。というか21世紀において、オケはある一定以上のテクニックさえあればいいんで、単なる楽器に過ぎないと感じさせられないような指揮者はダメなのかもしれません。もちろんこんな意見は業界関係者や現場からすると暴論でしょうけど、だからといって彼らに実感を超えた、聴衆にも説得的な指揮者の評価基準があるのかは疑問です。
さて、こんな口熱くさい話をしたのもこの交響曲が暗示と予言に満ちていることを教えてくれたからです。出だしのトランペットから軍隊を連想させます。いわくありげで皮肉っぽい音楽がおもちゃの軍隊を浮かび上がらせます。エカテリーナ2世の息子で、ナポレオンを敗走させたアレクサンドル1世の父親のパーヴェルがこよなく愛したおもちゃの軍隊。1925年という革命と戦争の中間期に書かれた音楽。……
アタッカで入る第2楽章はプロコフィエフのピアノ協奏曲とよく似た感じのピアノが活躍するスケルツォですが、気持ちよく走らせてくれません。強引に流れを止めて、イスラムっぽい音楽を聞かせたりします。
第3楽章にはオーボエがゆったりとしたメロディを奏でますが、「安らぎ」とは似て非なるもので、まさに現代の「安らぎ」そのものです。ショスタコーヴィッチの気質は重くメランコリックなものだと思いますが、強すぎるくらいの知性をこの曲では感じます。この楽章と第4楽章に出てくるヴァイオリンのソロの手順とか、唐突かつ乱暴な小太鼓のロールのクレシェンドが同じく第4楽章につながっているところとかですが、何より「秩序のあるカオス」といった矛盾するイメージが音楽で伝えられるというのはやはりただ事ではないでしょう。
ブラームスの出だしはおとなしめなのに音(特に木管)がとがっているように感じました。ブルックナーを髣髴とさせるようなもやもやしたところからテーマが立ち現れて来ますが、やっぱりブラームス的な逡巡といったところで、徹底性や突き詰めた表情は良かれ悪しかれありません。
第2楽章を聴いていて思ったのは木管が好きな人だなってことでした。別にいつもいつも木管から入るわけではありませんが、イニシアティヴのかなりの部分を握っている気がします。それを別の角度から言うとエキゾティックな雰囲気がそこはかとなく漂うということになるでしょうか。まったりとしすぎてて集中力の維持がむずかしい楽章でした。
第3楽章はとても有名なメロディが中心となるポコ・アレグレットです。ダイナミック・レンジが広くて聴きやすいんですが、この交響曲にはスケルツォがないことに気がつきました。おそらく(というのは客観的には言い過ぎで、単なる私の妄想ですがw)ブラームスは最初スケルツォを書こうとしたんですが、あんまりいいメロディが出て来たんで、うれしくなってこうしたんでしょう。彼は日頃からメロディが思うように出て来なくて悩んでいたんですね。ブルックナーのようにメロディなんかどうでもいいと吹っ切ればいいんじゃないかと思いますし、ましてやドヴォルザークを羨ましがる理由も私にはわからないんですけど。
それはともかくスケルツォ、あるいはそれに近いものがないためにこの交響曲はユーモアを欠いています。私は歴史上メヌエットからスケルツォに替わったことで、内容的にいちばん大きな意味はユーモアを構造に組み込むということだったんじゃないかと思っていますが、そんなことでこの交響曲は自己陶酔がちょっと鼻につきます。ヘ長調、ハ長調、ハ短調、ヘ短調という各楽章の調性も巧妙というよりは「なんかねぇ」って感じです。
第4楽章はとても爽快な演奏でした。重くて早く、各声部がよく鳴って、わざとらしいほどのソロへの落とし方も鮮やかな印象です。コントラファゴットがチューバの代わりに使われているように聞こえて、木管への偏愛が明らかだと思いますが、「木造建築のブラームス」という言葉が「石造建築のブルックナー」との対比で浮かびました。
ここで休憩があって、シマノフスキです。3管というだけじゃなく、ハープ2台、チェレスタ、ピアノ、銅鑼、ヴィブラフォン、小太鼓、シンバル、大太鼓などなどとかなりの大編成です。ちょっと余談ですが、プログラムに楽器編成を書いていないのは毎度のことながら大きな不満です。当日のお客のための冊子でありながら、作曲家の伝記や作曲の背景なんて目に見えない、耳に聞こえないことに紙幅を費やしていながら、「あの楽器はなんだろう」という素朴な疑問に答えていないのは今流行の言葉で言えば顧客満足度を著しく下げています。まあ、音楽学者とか評論家なんて「教養主義」の枠内でしかものを考えていない人が多いし、よく似た表現をあちこちで見るんで、どうせグローヴ辞典あたりの翻案だろうなって思うんですが。「お客はそれで満足してる」という声が聞こえます。そりゃそうでしょう。でも、CSが客の入りやアンケートで「わかる」くらいなら誰も苦労しません。
ソリストのアリョーナ・バーエワが真っ赤なドレスで登場します。長身、美形で若さと自信にあふれたオーラが漂っています。「ペトルーシュカ」を思わせるような冒頭(ストラヴィンスキーの影響は戦間期の音楽において露わです)に続いて瞑想的なソロが入ります。トライアングル、タンバリン、サックスと言葉にすると知的な感じがしませんが、巧みで贅沢な使い方がいいなと思っているとドビュッシーのペレアスのような夢の世界に入っていきます。この辺で、この曲は協奏曲というよりは独奏ヴァイオリン付きの交響詩だと感じました。単一楽章らしい自由な(実際は綿密な)展開から言っても、装いのわりにやや時勢に遅れた内容も。
弱音のトランペットが表す遠くから(現実かもしれません)の呼びかけに応えて、ソロがスペイン風の踊りを披露します。ポーランドと言うとショパン、マズルカとかがクイズの解答としては正解かもしれませんが、私の印象ではコスモポリタンなイメージです。オケが頂点を形作って、驚くほど長い間があってカデンツァになりました。観客を引き付けるだけ引き付けて自分の芸を見せる度胸には恐れ入りました。そういえばスクロヴァチェフスキも自分の間合いでゲネラル・パウゼを取る人です。メトロノーム的な意味では間違っているんでしょうし、それで何か表現できるわけでないでしょうけど、長い休符に自分の意志をこめることはできるように思いました。そして、この日の彼女はそれを十分に表す(何の苦もなく難曲を弾ききるという)技量を持っていました。音があちこちに飛び交い、無調主義っぽいコーダで終わりました。理由はわかりませんし、どうでもいいんですが、アンコールがなかったのも彼女らしいなと思いました。
最後のショスタコーヴィッチはスクロヴァチェフスキの才能に感服させられ、指揮者でオケは変わるなと思いました。というか21世紀において、オケはある一定以上のテクニックさえあればいいんで、単なる楽器に過ぎないと感じさせられないような指揮者はダメなのかもしれません。もちろんこんな意見は業界関係者や現場からすると暴論でしょうけど、だからといって彼らに実感を超えた、聴衆にも説得的な指揮者の評価基準があるのかは疑問です。
さて、こんな口熱くさい話をしたのもこの交響曲が暗示と予言に満ちていることを教えてくれたからです。出だしのトランペットから軍隊を連想させます。いわくありげで皮肉っぽい音楽がおもちゃの軍隊を浮かび上がらせます。エカテリーナ2世の息子で、ナポレオンを敗走させたアレクサンドル1世の父親のパーヴェルがこよなく愛したおもちゃの軍隊。1925年という革命と戦争の中間期に書かれた音楽。……
アタッカで入る第2楽章はプロコフィエフのピアノ協奏曲とよく似た感じのピアノが活躍するスケルツォですが、気持ちよく走らせてくれません。強引に流れを止めて、イスラムっぽい音楽を聞かせたりします。
第3楽章にはオーボエがゆったりとしたメロディを奏でますが、「安らぎ」とは似て非なるもので、まさに現代の「安らぎ」そのものです。ショスタコーヴィッチの気質は重くメランコリックなものだと思いますが、強すぎるくらいの知性をこの曲では感じます。この楽章と第4楽章に出てくるヴァイオリンのソロの手順とか、唐突かつ乱暴な小太鼓のロールのクレシェンドが同じく第4楽章につながっているところとかですが、何より「秩序のあるカオス」といった矛盾するイメージが音楽で伝えられるというのはやはりただ事ではないでしょう。
牧歌的かぁって考えてたら、ガーナチョコレートのホルンの旋律が頭に浮かんで取れなくなっちゃいましたw
3楽章は♪ドレミ~~ソファレッだけであれだけ言えてるんだもんね、うれしくなったでしょう、それは。
シマノフスキは知らなかったのでナクソスで見つけて聞いてみました。官能的で描写的で、生で聞いたらさぞ楽しいでしょう。ちょっと飽きて来た…と思う頃にロマンチックに思い切り盛り上げるし、サービスいっぱいですね。
ショスタコービッチは飽きるヒマのない、緊張感に満ちた音楽です、ピアノがめちゃくちゃ効果的…
と、久々にとりとめなく…