
ゴールデン・ウィークになった。入院患者には無関係なもののようだが、雰囲気が微妙に違う。自宅に帰る患者も多く、見舞い客も少なくない。しかし、家にも帰れず、訪れる者もいない患者と世間が休みでも働かなければならない看護婦たちの気持ちが病棟全体に漂い、どこか寂しげで不機嫌である。栄子もそういう気分に伝染したのか、夫と娘にわがままを言ったり、昔のことを話題にしたりした。輪子がむくリンゴに目を遣りながら、3人で郊外の遊園地に行ったときの話を長々とした。輪子がまだ4つか5つくらいの頃(栄子は5歳の誕生日だったと言い張った)、おにぎりと玉子焼き、きんぴらごぼう、ウインナ・ソーセージとウサギのリンゴなどを入れたお弁当とキャラメルやチョコレートをリュックサックに詰めて行った。輪子はかすかにしか憶えておらず、宇八は全く忘れてしまっていたが、二人とも栄子の事細かな話に根気よく付き合った。おれはリュックは背負っていなかったぞ夜逃げ専用だからなといった具合に。とてもいいお天気だったのに、急に黒い雲が出てきて、雨が降り出してしまった。あわててコーヒーカップの脇で雨宿りした。輪子はコーヒーカップが嫌いだった、お父さんがぐるぐる回すから。飛行機が好きだった、ゆっくり回るし、どこまでも見えるからって。そんなに高くなくても高い建物がなかったからねえ。雨はじきに止んで、きれいな虹が見えたんじゃないかしら。昔はよく虹が見えたもの。……
ゴールデン・ウィークの翌週、欽二がいつになく沈痛な顔をしてアパートにやって来た。宇八がどうしたと訊く前に病院に寄って来たと言った。
「奥さん泣いてたぞ。……あんなに小さくなって、ずいぶん老けてしまって。……なあ、ちゃんと面倒見てやってくれよ。悪いな、こんなこと言って。でも、奥さんとも長い付き合いだし、堪らないんだ、おれも」
黙っていることはいいことじゃないと宇八にもわかっているが、言葉は見つからない。タバコを吹かしながら、視線をそらしてしまう。
「なあ、それじゃあ、輪子ちゃんもかわいそうじゃないか。この間も……」
「まあ、他人の家のことは、いいじゃないか」
「そんな言い方をしなくても。こっちも心配しているんだから……」
「おれには、今そんな余裕はない。悪いが、帰ってくれ」
欽二はしばらく黙ってそっぽを向いている宇八の顔を見ていたが、小さいため息をついて帰って行った。
そのままタバコを吹かし続けて、気がつくと目の前の灰皿に何本もの吸殻が溜まっていた。無性に腹が立ってきた。誰も彼も逃げ出したいんだ、本当は。こんな死神だか、死霊だか憑りついたような家から、怖くて逃げ出したいんだ。だから、ごちゃごちゃ突っかかって、逃げる口実をもらいに来やがる。次はどいつだ、いくらでも突き放してやるぞ。宇八は額を熱くするような思いとともに、見えない相手に向かって、声に出して怒鳴りたいのを抑えていた。
そんな中でも病院の行う治療と看護と管理は変わりなかった。なぜなら栄子の病状はおおむね、まさにおおむねは安定していたから。この患者が最終的に治るとか治らないとかは、日々の彼らの業務とはあまり関係がないのだ。血圧や血中・尿中の物質、心拍数、呼吸数などなど、機械によって数値化されたヴァイタル・サインを通じて、患者は把握され、それに応じた治療が投入される。そして、その結果が再びフィードバックされる。人間に近い機械と機械に近い人間からなるシステムということに変わりはないのである。
6月の初め、宇八は再度の一時帰宅の許可と現在の病状の説明を求めて、蝶ヶ島と面談した。一時帰宅は拍子抜けするほどあっさりと認められ、病状については、「我々の予想以上に頑張っておられる」と言った。その言葉を聴いて、宇八は蝶ヶ島の目が死体を見る目だということにやっと思い当たった。ふつうの人間は人を生きている状態で理解していて、その人間が死ぬと、物質に変わると違和感を感じ、ショックを受ける。しかし、優秀な医師である蝶ヶ島は、常に人間を死体として見ている。こういうふうに思っている。あなたたちは笑ったり、怒ったり、泣いたり、いろんなことをしたりするけれど、いずれわたしの前に死体になって横たわるんですよ。あなたはまだもう少し時間がありますね、あなたの奥さんはもうすぐのはずなんだけど頑張っていますね、でも大勢に影響はないでしょう。待つこともわたしの仕事ですから。……おれはこいつに診てもらいたくないと思った。
そうなのである。この頃、宇八はネガティヴな方向にばかり考えが行ってしまうのを分かっていながら、止めることができなかったのである。もう終わりにしたい、そう考えること自体がネガティヴであるが、どうにも仕様がなかった。