夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(17)

2005-07-23 | tale

 それからしばらくは平和な日々が続いた。輪子の長いような、短いような夏休みも終わってしまった。いつの間にか、入道雲が彼方まで立ち上がる季節から、青空を箒で掃いたような雲の季節に変わっていたのである。

 宇八も欽二ももう日曜のミサには出なかった。残暑が厳しいこの都市で、にわか信者がそう長続きできるものではない。時木茉莉もミサに顔を出さないことが多くなったこともあって、栄子はあの夜のことも、自分の誕生日のことも口に出さない。形見分けの件も、全く説明せずに光子には万年筆を郵送し、達子には時計を手渡した(代わりにあの店からのあいさつ状を受け取った)。光子は案の定、なんにも言ってこなかった。手に残ったメガネは、一週間ほどカモノハシの隣に鎮座した後、タンスの中にしまい込まれた。その後、鳥海家とは用件だけを告げるような電話が何回か、間を置いて交わされるといったふうにして、徐々に復交していった。

 カトリックの信者がお彼岸に墓参りに行くのはおかしいだろうか? カトリックの神父が信者の手作りのおはぎを食べるのは変だろうか? 我々の立場は、両方とも否である。そして、我々の物語の登場人物も幸いなことに、同じ立場であった。お彼岸の初日に、宇八も妙に素直に栄子に随い、義父の保とその妻の春音が眠る郊外の墓地に参り、その後、教会におはぎを届けに行った。ルーカス神父が手ずから日本茶を淹れてくれて、彼の私室で重箱のおはぎを食べながら、雑談を交わした。

「……いやそれで、うまく夜逃げしたのはいいですがね、どこかに身を潜めていないと債鬼が追っかけて来やがる。東京なら隠れ場所はいくらでもあるだろうってんで、こいつらを親戚の家に預けて、おれは東京、それも貧乏たらしいところじゃあ、かえってダメだ。霞が関だとか、大手町だとか、そういうところに居たんですよ」
「そんなところに居たの?」
「そうさ。ああいうところで身なりさえ小ざっぱりしてれば、誰にもあやしまれない」
「いい勉強になります」
「神父さんが夜逃げのテクニックを学んでちゃいけませんぜ。わはは……それで霞が関ビルの前の広場で日がな一日ぼおっとしてて気づいたんだが、ああいう高いビルの近くには強い風が吹くんですな。最近、新宿の方にもっと高いのが何本もできて『ビル風』とか呼ばれているらしいが。ま、それでその時、そうか東京はこれから”a windy city”になるなって思ったんですよ」
「いい勉強になります。羽部さんのお話は。わたし神父なのに迷うこと多いです。悩んだりもしています。……こういうこと信者のみなさんに言ってはいけないのですが」
「ルーカスさん、年を取れば迷ったり、悩んだりするのも減りますよ。あたしなんかも若いときはいろいろ迷って、あれこれ考えるばかりだったんだが、40の誕生日にもう考えるのはすっぱりやめちまったんですよ」
「だから、あたしたちが余計迷惑かかるようになってるのよ」
「まあ、そう言うなって。お蔭で退屈しねえだろ?」
「神父様、この人の話を真に受けちゃあダメですよ。この人は、誕生日からして4月1日生まれって人ですから」

 ルーカス神父は日本茶を飲みながら微笑んでいたが、やがて口を開いた。

「……わたしの生まれたオーストリアは、ドイツ語を話すのですが、あの”habe”というのは、英語の”have”と同じ意味で、その”Ich bin Habe”と言いますと、みんなきっと笑います。あ、すみません変なことでないのです。わたし、とても良い名前と思います。……プロテスタントの作曲家ですけれど、わたしとても好きな作曲家、シュッツって人います。とても昔の人ですけど、その人に『音楽のお葬式』という作品があります」

 神父はいつになく少し熱を帯びてしゃべり続ける。宇八も含めてみな黙って聴いている。

「その中に”Herr, wenn ich nur dich habe, so frage ich nichts nach Himmel und Erden.”という、とてもすばらしい曲があります。どう訳せばいいですか、その”habe”を。『主よ、わたしがあなただけを持つならば、天も地も求めないでしょう』では、ふつうの日本語ではないです」

 ルーカス神父が歌詞を持って来て、ドイツ語の意味を少し説明した。すると宇八は3つめのおはぎをぱくつきながら、呟くように言った。

「ふーむ。こりゃ恋人かなんかに言うみたいに『あんたさえいればあたしはこの世にほしいものなんかありゃしない、あの青空だって要らないもの』なんて訳すのが気分が出ていいな」
「ああそうです。いい勉強になります。羽部さん」

 神父はうれしそうに応えた。


  TRACTUS
 Absolve, Domine, animas omnium fidelium defunctorum
 ab omni vinculo delictorum.
 Et gratia tua illis succurrente,
 mereantur evadere judicium ultionis.
 Et lucis aeternae beatitudine perfrui.

  詠唱
 主よ、亡くなったすべての信者の魂を、
 罪の縄目から解き放ってください。
 主の恩寵の救いによって、
 彼らを報復の裁きを免れるにふさわしい者とさせてください。
 彼らに永遠の光明の幸福を味合わせてください。



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2 コメント

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Unknown (hippocampi)
2005-07-25 00:05:23
怪し気な美人が登場して宇八がちょっと俗に崩れてきたかと思いきや栄子は現実に引き戻し、そして神父様は高尚な世界へ導く。スケールが広く奥行きがあるお話ですね。3次元的なものを感じます。わくわく。
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おほめいただきありがとうございます (夢のもつれ)
2005-07-25 11:38:29
いろんな人間がいろんなことを考えたり、行動したり、その中である種の全体的な世界が表現できればいいなと思っていますが、なかなか思うようにはいかないようです。



次回から新しい章に入りますが、今後ともよろしくお願いします。
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