「ビートルズとは何だったのか」(佐藤良明著)っていう本を読みました。50年生まれ、団塊の世代の著者が若い人たちに向けて、歴史、音楽、英語の授業をするというスタイルでビートルズについて語ったものですが、その中でフォスターがなぜ音楽室の肖像画の一人として掲げられているのかについて説明があって、そこがこの本の中でいちばんおもしろかったので紹介したいと思います。
私自身、クラシックは大学に入ってから聴き始めた人間ですから、バッハやヘンデルから始まるあの肖像画は自分とは全然関係のない変な髪型をしたおじさんたちとしか思っていなかったんですが、なんかフォスターは異質のような気がしていました。交響曲とかピアノ・ソナタとか聴く気はしないけれど、なにやら大層な音楽を書いていたらしい人たちと違って、「草競馬」とか「オー・スザンナ」とかずいぶん軽い音楽を書いていたのになぜ麗々しく掲げられているんだろう。その右の中山晋平や滝廉太郎も唱歌みたいなのが代表曲で、おんなじような気がするけれど、まあ日本人も出しておこうってことなんだろう。そんなことをなんとなく感じていました。……なんせ生来不器用でリコーダーや歌の実技試験はダメなもんだから、せめてペーパー・テストはと思って、作曲家と代表作を暗記していたせいかもしれません。
著者はフォスターの曲が黒人(アフリカ系なんて言うのは私はある種の偽善だと思っていますが)の音楽を下敷にしながら上品な雰囲気を持つように、つまり白人(ヨーロッパ系と言いましょうか?)にも受け入れられるように作られたものだと指摘します。もうちょっと具体的に言うと、黒人の音楽ふうになるように、オクターヴのうち半音になっているファとシを抜いたド・レ・ミ・ソ・ラの5音の音階(ペンタトニック)を基本として作曲しながら、「故郷の人々 The Old Folks at Home」(「スワニー川」っていう方が親しまれているかもしれませんが)だと「スワ、ニー」のところで下のドから上のドにジャンプする(わざともっと上にはずそうとするおバカな男の子がクラスに必ず一人はいたと思いますがw)のがしゃれた芸術的な雰囲気を持っていたというのです。そして、例えば山田耕筰の「赤とんぼ」でも同様にペンタトニックで書かれながら、「ゆうやーけ、こやけーの、あかとーんぼー」でも下のドと上のドが出てくる起伏の大きな曲になっていて、芸術的な味わいを出していると。
明治時代に日本の子どもたちに西洋音楽を教育しようとしたときに責任者になった伊沢修一という人がアメリカに留学した経験があって、わらべ歌や民謡で子どもたちが慣れ親しんだペンタトニックを元にしたフォスターを入れたそうです。……もちろんこの話はビートルズの曲も古くからの黒人やアイルランドの歌の音階が元になっているということにつながっていきます。
さらにおもしろいのは、日本の古くからのわらべ歌なんかを採譜・編曲する際にクラシック的な要素を入れすぎるとちょっと変なことになってしまうんですね。これについてはぽけっとさんが「西と東の歌5、続き、おまけ」で、なぜ「通りゃんせ」が怖いのかについて分析され、その上「怖くない通りゃんせ」wを演奏されているので、ぜひ見ていただきたいと思います。
さて、この記事を書いていていちばん心配なのは、「あたしの通ってた学校にはそんな肖像画なかったよ。一体いつの時代の話なの?」っていうふうに言われることですw。あんなマーラーもブルックナーもいないような古くさいもの(この二人が一般的になったのはCDなんかで長い曲が聴けるようになってからです)は、クラシックを縁遠いものにするだけだからなくなった方がいいとは思いますが。
しかも何故断言できるかと言うと、肖像画の話、子供達とすることが案外多いからです。
何となく興味引かれるもののようですよ。
ところでフォスターが近代日本の音楽史の中でそんな風にとらえられていたとは驚きです。
ドイツ一辺倒だと思っていたのに、何だかとてもうれしい気持ちになると同時に当時の近代化への苦闘ぶりが忍ばれて、感涙ものです
この本を読んだのとぽけっとさんのブログを見たのがほぼ同時だったので、シンクロニシティを感じてしまいました。こういうあやしい感覚も好きだったりします。……男とはイヤだけどw。
スワニー川の冒頭からしばらくは5音のメロディーですが、♪なーがき、としーつき…からは突然7音になって、そこに来ると何故かほっとした感じになって、うまくできてると思います。
いやぁ、音楽ってこうやって聴いてみるのもおもしろいですね