平日の午後、たまたま宇八と光子が二人きりになり、また宇八が出かける様子もなく黙って食卓の前に座っている。彼に言わせれば金もない中年男の行き場などないのでそこにいるだけのことだったが、光子としては何を考えているのかわからない、職を探す気だけはなさそうな義兄に当たり障りのない話をしても、相槌一つがまるで専制君主から賜るありがたいお言葉であるかのような気になってしまうのに疲れ、話題を探しあぐねて「そうそう」とか言って、息子が理科のノートに書いた詩のようなものを持って来た。
野球のない世界
多くの罪を重ね、神の最後の怒りを招いた愚かな人類は、
「野球」と引き換えに生き延びることが許された。
野球は永遠に失われた。
バットもボールもグローブもユニフォームもヘルメットも
野球場も野球選手も野球監督も野球中継も野球評論家も
野球に関する一切がこの世から消えてなくなった。
その言葉と記憶とともに。
野球は始めから地上に存在しないのと同じになった。
それは大したことではなかった。
後楽園の遊園地が広くなって、甲子園にはマンションが建っていた。
王はゴルファーになっていて、長嶋はサッカーをしていた。
二人とも歴史に残る名選手だった。
江夏はよくわからなかった。
テレビのゴールデンタイムには、筋書きのあるドラマが流れていた。
それだけのことだった。
ただどうしたわけか、ぼくの机の引出しにこの世でたった一つのボールがあった。
それがなんなのかぼくにはさっぱりわからなかった。
家族や友人や教師や、いろんな人に見せたけれど、
誰もその使い途を知らなかった。
なんの役にも立たないものなんだろう。
でも明るい空の下で、それを高く投げ上げると少し切ない気持ちがしないか?
「この間、ちょっとパラパラめくったら見つけたんですよ。……そんなに野球好きなように見えないのに」
思春期の息子を持つ母親がそうであるように、自分の子が秘密を持ち始める不安と成長を誇る気持ちとをにじませながら言うのに対し、宇八は不得要領に「まあ、いいんじゃないか」などと応えたきり、関心もないように見える。
光子は話頭を転じるため、「晩ご飯どうしようかしら」と独り言のように言いかけたのを飲み込んだ。前にそんなことを言ったら、「寿司かステーキがいいんじゃないか」と即答されたのを思い出したからだ。何にもしゃべれやしないと思って、洗濯物を取り込むことにした。……光子は、気が向けばこっちの都合も気にしないで話し掛けてくるのに、気が向かなければいつまでも黙っているこの義兄が苦手である。
ある日の夕食時、めずらしく菫も早く帰って来て、全員がそろったところで、何の脈絡もなく宇八が発言した。
「ソクラテスっていやな奴だって思われてたんだよな」
まるでこの家の家長のような口をききやがると薫は思った。
「そのあれですか、アテネで死刑に処せられたのは、嫌われ者だったからってことですか? わたしもソクラテス関係の本は何冊か若い頃読みましたが、そういうのは記憶にないなあ。義兄さんの新説だな」
ただでさえカニ・クリームコロッケが破裂したり、べちょべちょになったりで情けない思いをしていた光子は、姉に当てつけるような気分で言った。
「奥さんのせいじゃないの? ソクラテスの奥さんって悪妻だったんでしょ? ちゃんと家を守って、夫を助けてあげてなかったんじゃあ……」
栄子は、料理屋や賄い付きの下宿屋をしていた家の長女だったくせに、あるいはなんでも女中任せにしてきたせいなのか、料理はからっきしダメな方だった。親戚の子どもたちの中でも「羽部のおばちゃんのカレー」はやたら黄色くて粉っぽく、評判が悪かった。その代わり食卓を飾ったり、食器周りに洒落た工夫をするのが好きで、無残な形のコロッケはこの家でいちばん大きな平皿の上で、レッドキャベツとともに牡丹のような形に並べられていた。刻んだタマネギとパセリをマグカップの中で、マヨネーズと混ぜた『羽部家特製のソース』が添えられていた。
ところが、宇八はそんな妻の創意工夫に頓着することなく、ウスターソースをじゃぶじゃぶ掛けてコロッケを次々と口に放り込みながら言う。
「クサンティッペか、色々言われているが、肝心のところは分からないな。ふつうの夫婦と同じようなもんだろ」
栄子がやや微妙な顔付きをしているのを童は気付いていたが、意味合いを測ることができないので、玉ねぎが目に沁みるタルタルソースに辟易しながら、意図的に単純な質問をした。
「でもプラトンなんかの若者たちには慕われていたんでしょう?」
「そうさ。だから危険視されてたんだ。……不服そうだな。今だって若い連中に人気のあるロックやマンガは危険で有害だって言われてるんじゃないのか?」
童は伯父の言葉にコロッケの味も忘れてしまった。
「そりゃそうなんだって。有害だって言われないようじゃあ、にせものだ。ソクラテスがやったことって、評論家の先生やマスコミなんかの何でも知ってるつもりで、偉そうなことを言ってるおっさんどもを片っ端から天下の公道でとっ捕まえて、そいつらの無知振りをさらし者にしたんだから」
「そういうことなんだ」
感心して喜んでいるのは童だけで、他の5人は押し黙って夕食を咀嚼している。
「そうさ。またそのやり方が汚い。教えを乞うと慇懃に出ながら、いつの間にか恥をかかせるようになっている。いくら善い人には悪いことは起きないと嘯いたっていつかは……」
「童、肘をついて飯を食うんじゃない、いつも言っているだろ。菫も女の子なんだからお箸を……」
薫の少し甲高くなった声が合図のように、菫は「ごちそうさま」と立ち上がりながら言って、プイと自分たちの部屋に入ってしまった。
座が白けたまま宇八は自分で3本目のビールを座ったまま手を伸ばして出す。栄子に「もうないから、冷やしておけ」と言いながら。
童もつまらなそうな顔で自分たちの部屋へ入ると、しばらくして姉弟の言い争う鋭い声が二言三言聞こえ、菫が何も言わず、急な用事でもあるようなふうに外へ出た。
ある日、菫が例によって帰るのが遅い日だったのだが、気まぐれのように宇八が童のところにやって来た。勉強を教えに来たのか、からかいに来たのか、本人にもよくわからない。……先日、母親から見せられた詩のことが影響していないとは言えないだろう。あれは、母親ばかりか本人もどこまで気がついているかどうか知らないが、野球のことなどではなく、自分の死について語っていることをこの伯父はすぐに気づいていた。
思春期は自我が目覚める時期とよく言われることだが、目覚めは終わりがあることを知ることに他ならない。自分自身が死に、周りの人間もやがて死んで、誰の記憶からも消えてなくなってしまう。砂の上の足跡が消えていくように「始めから地上に存在しないのと同じに」なる。そうしたことを「それは大したことではなかった」とか「それだけのことだった」と言っているのだろう。宇八の脳裏にも(そう、実に意外なことなのだが、誰にも思春期はあるのだ)冷え冷えとした三畳間で切羽詰ったような気分で本を読んでいた場面が蘇る。自我が本能的に感じる死への寄る辺のない怖れと、大きな懐かしいものに抱かれ、甘く静かに溶け込まされていく大きな安らぎとが併存する気分を感じていた自分がまだどこかにいるように思えた。……
童がうんざりしていた数学の問題集を取り上げながら伯父が言った。
「数学は? 好きなわけないな」
机の脇の本棚にはシャーロック・ホームズだの芥川龍之介の短編集だのカフカの『城』だのの文庫本が参考書の間に恥ずかしそうに並んでいる。
「でも、数学はものごとを厳密に考えるのに必要だ」
「そうかもしんないけど」
「……ふうむと。計算とかはおれも嫌いなんだ。そんなのが得意でも機械として優秀なだけだ。……こういうクイズはどうだ? 1から2を、次に3をつくれってのは」
「1たす1は2じゃ小学生だし……」
「そりゃそうだ。じゃあ一辺が1の長さの正方形を考えて……」
童は、伯父がノートに描いた正方形を見て、少し考えてからひらめいたような顔をしたが、何気ないふうを装った声で言った。
「対角線が√2になるから、それを一辺して正方形を作れば面積が2になるよね」
宇八は頷きながら、図を書き加える。
「そう、ふつうはそれが答えなんだろうけど、おれのはちょっと違うんだな。面積じゃなくて1の長さから2の長さがダイレクトにほしいところだ。……この正方形からこうすると立方体ができるだろう?この頂点といちばん遠い頂点とを繋いだ線の長さはどうなる?」
元々図形、特に立体図形が苦手な甥は困ったような顔をしていたが、伯父が「立体は切ったり、回したりするもんだ」と言いながら斜めに切り取った三角形を描いてやるとなんとかわかった。
「そうか√3になるんだ」
「……ここでちょっと整理しようか?ここまで出てきたのは、1、√2、√3だ。それぞれの次元はなんだ?」
童は、え?と思いながら、初めて宇八の目を正面から見た。にやにやしながら輝いている。
「そうさ、次は4次元の……立方体とは言わないんだろうが、そういったものを描いて同じようにすれば長さが√4、つまり2の長さの対角線が出てくるだろう。……いや、おれだって4次元の図形なんてイメージできないし、別に確かめたわけじゃないけどさ、そうなってなきゃ変じゃないか? 9次元は3、16次元は4というふうに、次元数の平方根の長さの対角線が出てくるって考える方が自然だろう? これが1から順に2、3を作っていく……自然なやり方だ」
言葉の終わり頃はもう立ち上がっていて、放屁をしながら部屋を出て行ってしまった。