6/28に池袋の東京芸術劇場で行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムは若杉弘指揮でメシアンの「われらの主、イエス・キリストの変容 La Transfiguration de Notre-seigneur Jesus-christ」でした。直前に買ったチョン・ミュン・ファ指揮のラジオ・フランス・フィルのCDへのHMVのレビューによると「演奏時間約100分(2部14曲)、5管編成の巨大オーケストラ、100人の合唱団、7人のソリストに打楽器部隊を要するという超大作」で、「メシアン最大規模の作品にふさわしい凝りに凝った見事なもので、メシアンが愛した『鳥の声』の概念が多面的に取り込まれるほか、ギリシャやインドといった異国趣味、複雑極まりないリズム、対位法、過激なまでの大音響、美しいチェロのソロや、合唱による崇高なコラールなど、数多くの要素がモザイク的にせめぎあって、圧倒的な感銘を与えてくれ」るんだそうです。これだけ読んでいるとすごく期待してしまいます。
でも、残念なことにCDもコンサートも退屈と言うか、私には歯が立たないような感じの代物でした。いちばんの理由はこの曲にテンポの変化がほとんどないことでしょう。メロディによる表情の変化も極めて乏しいですし。……メロディの魅力は「現代音楽」では放棄されたものが多いんで文句は言えない感じですが、テンポの変化はある程度の長さの作品だったら大抵はあるでしょう。つまりこの曲はバロック以降の西洋音楽の根幹的な要因を欠いているんじゃないかと思います。だから、この曲の合唱の部分だけを取り出すと中世的な作り(旋法自体はメシアン的な非西洋ふうのものですが)だと言っていいでしょう。その代わりに大規模な打楽器群が多彩な音色を短いパッセージ(早いものもありますが、全体のテンポを支配するわけではありません)で響かせますが、それで100分はもたず、飽きてしまうのです。印象としてはトゥランガリラ交響曲の緩徐楽章だけを集め、オンド・マルトノを声楽に置き換えて、宗教曲に仕立てたような感じといえばいいでしょうか。私が抱いたイメージはアフリカかアジアのジャングルの中で聖歌隊が延々と歌っているというものでしたが。
しかーし、わかんなぁいだけじゃあ無理してw宗教曲にくわしいフリをしているのに悔しいし、ラテン語とは言え、テクストがあるんだからそっちからアプローチしてみようかなと思いました。ということで、まずは「イエスの変容(Transfiguration)」について聖書を見てみましょう。マタイ福音書の第17章の第1節から第9節までを引用します。
① イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。彼らの目の前で、姿が変わり(ラテン語でTransfiguratus)、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(1~2節)。
② 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペテロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに幕屋を3つ造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリアのためです」(3~4節)
③ 彼がまだ話している間に、光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼の言うことを聞きなさい」という声がした(5節)
④ 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。一同が山を降りるとき、イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と命じた(6節~9節)。
同じような内容はマルコ福音書(第9章第2節~第9節)とルカ福音書(第9章第28節~第36節)にもあるんですが、ルカ福音書ではモーセとエリヤと話していた内容はイエスがエルサレムで遂げようとしていた最期についてで、そのとき弟子たちは眠くてたまらなかったと報告されています。また、ペテロが幕屋を造ろうと言ったのは何を言うべきかわからなかったからだという説明が両方の福音書にあるなど少しずつ違いがあります。……これは憶測ですが、3つの福音書の中でマタイがいちばん説明が少なく、謎めかしてて、想像の余地があるからメシアンは採用したのかなっていう気がします。
いずれにせよ画像を見ればわかるようにこの新約聖書のエピソードでは、イエスが旧約聖書を代表する預言者のモーセやエリヤと同等(かそれ以上)に位置づけられ、3人の弟子たちから超越した存在になっています。また、イエスの顔や服が輝き、光る雲の中から神の声(福音書は声の主が神とは言っていませんが、ペテロの第2の手紙第1章第16節~第18節にはこの場面が紹介され、栄光の神からの声をペテロが直接聞いたと書かれています)が聞こえるなど、光のイメージが強く打ち出されています。
これだけの予備知識を持ってメシアンの作品を見ると、まずマタイ福音書の①~④が第1部の1曲目と4曲目、第2部でもやはり1曲目と4曲目(通しでは第8曲と第11曲)に省略も追加もなくそのまま使われています。その音楽はかなり共通性があって、カーンカーンって鐘が鳴って、ドワワーンっていう銅鑼とチャカポコっていうウッドブロック?が鳴り、さらに鐘が鳴ってミュートがかかると合唱が始まるという具合で、ソロ楽器と他の打楽器群は沈黙していて儀式の雰囲気が濃厚です。ただ③のところでは弦による下降のグリッサンドがあって、雲に包まれる感じが描写されています。ここは全曲中でいちばんテクストをストレートに音化したところじゃないかなって思います。
ちょっと音楽の細部の話を先にしちゃいましたが、全体としてこの作品は7曲ずつの2部からなり、また、ピアノ、チェロ、フルート、クラリネット、マリンバ、シロリンバ(xylophone+marimbaってことだそうです)、ヴィブラフォンの7つのソロ楽器があるんで、7にゲマトリア(数秘術)的な意味合いがあるんだろうと思います。しかし、上記のようにテクストの方から見ていくとどうも3にも意味がありそうです。つまり7=3+4という構造を見ることができるだろうということです。……こういうのはいくらでも見つけられますが、やりすぎるとトンデモ本みたいになるので今のところはこれくらいにしておきますが。
でも、残念なことにCDもコンサートも退屈と言うか、私には歯が立たないような感じの代物でした。いちばんの理由はこの曲にテンポの変化がほとんどないことでしょう。メロディによる表情の変化も極めて乏しいですし。……メロディの魅力は「現代音楽」では放棄されたものが多いんで文句は言えない感じですが、テンポの変化はある程度の長さの作品だったら大抵はあるでしょう。つまりこの曲はバロック以降の西洋音楽の根幹的な要因を欠いているんじゃないかと思います。だから、この曲の合唱の部分だけを取り出すと中世的な作り(旋法自体はメシアン的な非西洋ふうのものですが)だと言っていいでしょう。その代わりに大規模な打楽器群が多彩な音色を短いパッセージ(早いものもありますが、全体のテンポを支配するわけではありません)で響かせますが、それで100分はもたず、飽きてしまうのです。印象としてはトゥランガリラ交響曲の緩徐楽章だけを集め、オンド・マルトノを声楽に置き換えて、宗教曲に仕立てたような感じといえばいいでしょうか。私が抱いたイメージはアフリカかアジアのジャングルの中で聖歌隊が延々と歌っているというものでしたが。
しかーし、わかんなぁいだけじゃあ無理してw宗教曲にくわしいフリをしているのに悔しいし、ラテン語とは言え、テクストがあるんだからそっちからアプローチしてみようかなと思いました。ということで、まずは「イエスの変容(Transfiguration)」について聖書を見てみましょう。マタイ福音書の第17章の第1節から第9節までを引用します。
① イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。彼らの目の前で、姿が変わり(ラテン語でTransfiguratus)、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(1~2節)。
② 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペテロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに幕屋を3つ造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリアのためです」(3~4節)
③ 彼がまだ話している間に、光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼の言うことを聞きなさい」という声がした(5節)
④ 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。一同が山を降りるとき、イエスは弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と命じた(6節~9節)。
同じような内容はマルコ福音書(第9章第2節~第9節)とルカ福音書(第9章第28節~第36節)にもあるんですが、ルカ福音書ではモーセとエリヤと話していた内容はイエスがエルサレムで遂げようとしていた最期についてで、そのとき弟子たちは眠くてたまらなかったと報告されています。また、ペテロが幕屋を造ろうと言ったのは何を言うべきかわからなかったからだという説明が両方の福音書にあるなど少しずつ違いがあります。……これは憶測ですが、3つの福音書の中でマタイがいちばん説明が少なく、謎めかしてて、想像の余地があるからメシアンは採用したのかなっていう気がします。
いずれにせよ画像を見ればわかるようにこの新約聖書のエピソードでは、イエスが旧約聖書を代表する預言者のモーセやエリヤと同等(かそれ以上)に位置づけられ、3人の弟子たちから超越した存在になっています。また、イエスの顔や服が輝き、光る雲の中から神の声(福音書は声の主が神とは言っていませんが、ペテロの第2の手紙第1章第16節~第18節にはこの場面が紹介され、栄光の神からの声をペテロが直接聞いたと書かれています)が聞こえるなど、光のイメージが強く打ち出されています。
これだけの予備知識を持ってメシアンの作品を見ると、まずマタイ福音書の①~④が第1部の1曲目と4曲目、第2部でもやはり1曲目と4曲目(通しでは第8曲と第11曲)に省略も追加もなくそのまま使われています。その音楽はかなり共通性があって、カーンカーンって鐘が鳴って、ドワワーンっていう銅鑼とチャカポコっていうウッドブロック?が鳴り、さらに鐘が鳴ってミュートがかかると合唱が始まるという具合で、ソロ楽器と他の打楽器群は沈黙していて儀式の雰囲気が濃厚です。ただ③のところでは弦による下降のグリッサンドがあって、雲に包まれる感じが描写されています。ここは全曲中でいちばんテクストをストレートに音化したところじゃないかなって思います。
ちょっと音楽の細部の話を先にしちゃいましたが、全体としてこの作品は7曲ずつの2部からなり、また、ピアノ、チェロ、フルート、クラリネット、マリンバ、シロリンバ(xylophone+marimbaってことだそうです)、ヴィブラフォンの7つのソロ楽器があるんで、7にゲマトリア(数秘術)的な意味合いがあるんだろうと思います。しかし、上記のようにテクストの方から見ていくとどうも3にも意味がありそうです。つまり7=3+4という構造を見ることができるだろうということです。……こういうのはいくらでも見つけられますが、やりすぎるとトンデモ本みたいになるので今のところはこれくらいにしておきますが。
*************
なんかいろんなものがあるサイトです。
それはお疲れさまです。
学生の頃、作曲の先生がマーラーなどの巨大シンフォニーは鑑賞として聞くのは無理で、分析しながら聞くもんだよ、と言われてたのが印象に残っていますが。(だからずーっと、そういう音楽は食わず嫌いしてましたw)
現代音楽は多かれ少なかれ、トンデモ本的付録つき、で聞くものかも知れませんね。
打楽器の描写は可愛いくて、臨場感ありました!
マーラーは分析しなくても楽しめるようになったのは時代の変化かなっていう気もしますが、どうも「現代音楽」ってのはいいこと言ってりゃそれでいいんだっていう論文みたいな感じがありますね。
音楽において「わかる」とは何か?って自分のテーマとして追いかけてるところがあるので、まあいい素材なのかもしれません。