夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(6)

2005-06-14 | tale


  3 ソクラテスはいやな奴~GRADUALE

 それから5か月ほど経って、羽部宇八は妻の末妹、鳥海光子の住む郊外の団地の六畳間に妻子共々ころがり込んでいる。健闘空しく事業は欽二の予想どおり失敗し、債権者に追われる身となってしまったのだ。
「さあ、今夜夜逃げするぞ」との彼の号令一下、準備を整え、大中小のリュックサックに最低限の荷物を詰め込んだ。幼い一人娘もあたかも「夜逃げ」というのは夜に出かける旅行くらいの理解をしているのか、特段の表情も浮かべずに淡々と勉強道具や紙の着せ替え人形などを詰めている。この子は1964年の10月10日生まれなので、五輪の輪子で「りんこ」という。
 妻の栄子は、持っていけないけれど、捨てるのに忍びないものを何度も手に取っては戻しながら、思わずため息が出そうになるのをこらえていた。輪子の運動会のお弁当を作った玉子焼き器、肉がほんの少ししか入っていないシュウマイや会社を興したときに赤飯をふかした蒸し器。こんなものも買うまでには、幾晩もやりくりを考えたのに。……
 辺りを伺いながら終バスに乗り込んで、6年間(彼としてはここ何十年でいちばん長く)住んだ、台所の窓からため池が見えるスレート葺きの平屋の公営住宅を後にしたのだった。舗装されていないカーヴをバスが曲がるとき、首をねじるようにして窓の外を見ていた栄子の目には、自分たちが去った家が揺れるように映った。

 夏の間は、妻子を義妹宅に委ねるとその脚で、宇八は債権者の手を逃れるべく行方をくらました。東京に行くとは言っていたものの、9月に入ると、妻子にも行方不明、音信不通の状態になったが、10月も終わろうとする頃になってひょっこり団地に現われ、家族再会と相成った。
 妹夫婦には、高校1年の娘と中学2年の息子がいたので、新興団地の三階の3DKにつごう7人が住むという、向寒の候にしてはずいぶん暑苦しいことになってしまった。具体的には甥が一人で使っていた六畳間に大きな和ダンスと洋ダンスを残したままだから実質は四畳半もないところに、宇八の家族3人が居候することになり、小柄な栄子や小学2年生の輪子はまだしも宇八の巨体があれば、肩を寄せ合わずともまだまだ火の気は要らなかった。
 もう一つの六畳間に義妹夫婦、四畳半に体格的には大人の姪と甥とが暮らすわけだから、文句の出ないはずがない。最初は愛想の良かった光子の夫の薫も次第に重箱の隅を突くようなもの言いになってきた。この薫という人物は、本人の認識はともかくひと言で言ってしまえば、おめでたい人間ということになるだろう。彼自身は自分はそこそこ優秀であると考えており、学校での成績とか会社での評価とかもそれはそうなのだが、なかなか世の中というものはそんなことで決まるものではない。
 妻や子どもに対して説教したり、偉そうなことを言ったりもし、それ自体としては一般的には夫として父として当然必要なことなのだが、個別具体的には結局のところ自分の知識なり、経験なりをひけらかし満足することに傾いたものと言わざるを得ないものだった。そして、そんな夫のわがままを許してきたのが3歳年上の光子だったのであり、一見したところとは逆に精神的には薫が光子に依存しきっているのに、そのことには幸福な夫はいっかな気付く気配がないといった具合なのである。
 ただ一点我々として彼を評価しておきたいのは、自分の子どもの名前への執着である。自分の薫という名前、とりわけその漢字の形が気に入っていたので、娘には菫という名を考え、役所へ届けに行ったものの、当用漢字でも人名漢字でもなかったので使えないと言われ、彼としては空前絶後お上に楯突くこと2時間、届出はカタカナのスミレで泣く泣く引き下がったが、娘には最初から漢字で書くことを強要した。長男も同じ発想で童と届けに行き、振り仮名を見もせずに「わらべですか?」と言った窓口の女性職員にかっとなって、「ドウだ!」と叫び、奥にいた住民課長を含めて職員一同を立ち上がらせたのだった。……
 
 光子は、そうした夫への遠慮と、自分たちを賓客とでも思っているかのような長姉(栄子と光子の間には達子という次姉がいる)夫婦の態度との板ばさみになって、子どもたちに当り散らしがちになってしまうことで、ある種の自己嫌悪に陥っていたのだった。
 姉の菫も弟の童も中学生になってからようやく自分たちの部屋が与えられ、二段ベッドから別々のベッドが持てるようになったところだったので被害は甚大であった。菫がパンダや熊のぬいぐるみなんぞを飾り、ベッドの下や押入れの奥は別として、女の子らしく小ぎれいにしていた部屋に、いきなりロック・スターやピンナップ・ガールのポスターが漂わせる独特のにおいのする弟の部屋が、これまた机の引出し辺りに誰にも見られたくないものを潜ませながら闖入してきたようなものであった。ただでさえこうした年代の姉弟はお互い関わり合いたくないのに、こうした次第では二人が言葉を交わすことは全くなくなってしまった。
 ところが、こうした事態の原因である羽部家の人びとに対する鳥海家の子どもたちの反応は、親たちとはまた違っていて、つらく当たったりするわけでもなく、菫などは輪子をこれまで以上にかわいがっていたし、それよりも自分の両親から離れるという態度に出たのだった。菫は、弟のみならず両親ともほとんど口をきかなくなり、最近早くなっていた帰宅時間も遅くなって、両親のイライラのタネになっていたが、「人口密度を少しでも減らしているのに」などと適当にはぐらかしていた。童は、中学校に入った頃から次第に無口になっていたこともあって、両親と疎遠になってもそれはこの年代の子どもによくあることと理解され、あまり注意を引くことはなかった。
 さて、こういった3DKの中で我らが主人公がどんな顔をしていたのかと言えば、いつもと同じ表情、同じ態度、同じ横柄な口のきき方であり、一文も義妹の家庭に渡さないという真正の居候にしてはなんとも愛嬌のない話であった。つまり、栄子は言うに及ばず、幼い輪子でもしばらくは食欲がなくなったというのに、狭いところで親戚という名の他人に気兼ねしなければならないという圧迫感、ストレスというものをこの男は、全く気付いていないか、気付いていながらあえて黙殺しているのかどちらかといったふうであった。


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