チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

追悼 栗林輝夫先生

2015年09月07日 17時56分52秒 | Weblog
去る5月に栗林輝夫先生が亡くなった。「日本の神学」を語れる貴重な組織神学者を失ったという意味で、日本のキリスト教にとっては誠に大きな損失だと思う。個人的には、同じ関西学院大学で宗教主事として働いていた10年間に、もっと栗林先生からいろいろ学んでおくのだったという後悔の念が大きくなる一方である。

普段、本の紹介文を載せてもらっている『広島聖文舎便り』の2015年9月号に、追悼の気持ちを込めて、『日本民話の神学』(1997年8月刊)の紹介を書いたので、以下に転載しておきたい。この本を取り上げたのは、栗林先生と一緒に働くようになったばかりの年に出版された本であり、またその聖書解釈の豊かさに大きな衝撃を受けた本だからでもある。

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研究室の書棚からお薦めの1冊(27)(追悼 栗林輝夫先生)

栗林輝夫『日本民話の神学』
(日本基督教団出版局、1997年8月。2500円+税)

今回紹介するのは、18年も前に出された本です。しかし、もし未読でしたら、ぜひ手に取ってみることをお薦めします。きっと聖書の読み方が大きく変わります。

日本を代表する神学者として、私なら躊躇なく栗林輝夫氏(†2015.5)を挙げるでしょう。栗林神学は日本の状況に根ざして発信されてきた、本物の「日本の神学」だからです。被差別解放という視座からキリスト教神学を問い直した『荊冠の神学』(新教出版社、1991年)はあまりにも有名で、紹介を要しないほどです。近年は、原子力発電の問題に積極的に発言し、脱原発のキリスト教倫理構築に精力を傾注しておられました(『原子力発電の根本問題と我々の選択:バベルの塔をあとにして』共著、新教出版社、2013年)。

そのような「社会文脈」的な栗林神学とはやや色合いを異にするのが、この『日本民話の神学』です。本書は、栗林氏が四国学院大学の教員時代に触れた讃岐地方の民話を取り上げ、その中に現れている民衆の視座を読み取り、これを聖書の物語と織り合わせることによって、伝統的な聖書解釈や神学思想を変えていこうとする意欲作です。讃岐の一寸法師「ごぶいち(五分の一)」の物語から「成人」という主題を読み取り、そこから創世記の楽園物語に違った読み方を与え(1章)、讃岐の人柱伝説である「ちきりの女」の物語と、エフタの娘の物語(士師記11章)を重ね合わせ(4章)、犠牲者の目から神の正義を問い直し、さらには、讃岐の女桃太郎話から伝統的な「男性」キリスト論を揺さぶる(5章)、著者の語り口の面白さに引き込まれているうちに、自分が当たり前に思っていた「定番」的聖書解釈が変わっていきます。

「今やニューヨークやテュービンゲンの神学部の教室で学んだことを、アジアや日本の場に適用するのではなく、むしろ、それぞれの場から欧米の神学を批判的に脱構築し、そして新しく再構築することが正しい」(14頁)という著者の「知の転換」宣言を、誰もが聖書解釈に即して味わえる1冊です。このような素晴らしい神学者を病で失った私たちの痛手は、測り知れません。

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