昔、川端康成原作の伊豆の踊子の映画があった。踊り子役は吉永小百合さん、学生役は高橋英樹氏だったと思う。
もし、吉永早百合さんが撮影中に【自分】を想い出したら映画はブチコワシになっただろう。ロケの現場に出た瞬間、彼女は本物の伊豆の踊子になった。・・この辺りがやはり役者が凡人ではないことの証左だろう・・・小学校学芸会の劇でさえも私は照れくさくて【父帰る】の子供役を出来なかった。
坐禅は本来の自分、役柄に入る前の自分を想い出す方法であるに違いない。その要点は前頭葉論理思考を停止することだろう。何の何某に扮して地上世界に登場して演技している、その事を忘れる、忘れると『ああそうだった、私は吉永小百合だった!』と思い出す。
『そうか!私は別段、この衣装だの置かれた位置だのに制御されなくてもいいんだ!』
では何時から人類はこんな不便な世界に登場して苦労するようになったか?拙者思うに最初の女、エバが悪魔の囁きに負けた時から。・・・『知恵の実を食べたらあなたは神さんのように賢くなるかもしれんよ』と言われて食べた、その象徴的意味は【知恵】の実を『食べる』、つまり前頭葉論理思考に随って生きる、計らって生きる、子供の将来を計らう、総てを賢しらに計画する・・・己の浅知恵にも気着かず。ここから人類の四苦八苦が生じた。見たまえ猫に四苦八苦があるかな?犬にはどうかな?猫が子猫の盗癖について将来を気に病んでいるのを見たことがない。
神は最初に言ったはずだ・・『あなたは園のどの樹から実をとって食べてもよい』、つまりあなたの生存は保証する、だから何を食べようかと生存に関して心配する必要はない。
坐禅は【人間は本来そういう存在なのだ】と薄ら気着かせる。
不思議に思う事は、前頭葉論理思考、理性で考えれば生活できるはずがない、と見えた人々が生きていると言う事である。人間の生存には何か別の法則が働いている。坐禅はそれを閃かせる。気が付くと愚かになる、しかし真の賢さが立現われる。
その機微を言った問答に・・・『如何なるかこれ祖師西来の意?』との問いに応えて言う、『庭前の柏樹子!』・・・『大先生が西からやって来られた意義は何ですか?』『あそこに柏の樹が生えてるよ!』ワカル?この意味?