かつての学友には失礼なんだが・・・賠償留学生として来ていた人々、卒業して祖国に戻り造船業を興すメンバーとして活躍すると思っていた。日本が明治開国してからやった事を同じようにするものだ、と思い込んでいた。でもそうなっていない。何故だろうか?とかねて考えていた。今も少し考えている。
翻って、広島、長崎の惨状を写真で見る、体験者から聞いた・・・『復員して長崎に戻って来て見ると、アメリカ兵がジープに髑髏をぶら下げて走っている、チョコレートを投げると子供たちがワッと拾いに駆け寄る、ああ負けたんだ!と泣きたかった』などと。また東京大空襲で黒焦げになって転がっている母親と赤子、一面の焼野原、私自身は家族に連れられて台北から引き揚げた。国はゼロになり人は溢れた。
しかしたちまち復興して現在に到っている。1960年代になるともう先進国だと思い始めていた。様々な問題ありとされながら一昨年20数年ぶりに見た東京は『失われた20年とは本当の話か?』と驚く姿だった。先に述べた留学生を送った国々の人々と日本人の能力にさしたる違いはないと思うが何故こんなに違うのか?との疑問が拭えない。
そして思い到るのは『もしかしたら本当に日本を動かしているのは人ではなく別の存在ではないか?』『必然は偶然の姿をして登場するのではないか?』『個人の場合と同じく国家もまたその初めから終焉まで決まっているのではないか?』と言うことである。さらに『世界もまたそうではないのか?』『今不都合に見える事象も全体スケジュールからすれば必然なのではないか?』と考えるわけである。
聖書を『日本人を主たる読者に書かれた人類史と言う演劇のシナリオ』と考え、そこに記述されている事を仮説として日本を、世界を、そこに起こりつつある事柄を解釈するのはそういう理由にもよる。無論、既に開かれ、且つ閉じられたシナリオと実際に起こった歴史上の事柄が相違していれば論外であるが今まで見た限りではシナリオ通りに歴史は展開した。
Sh'ma Yis'ra'eil Adonai Eloheimu Adonai echad
翻って、広島、長崎の惨状を写真で見る、体験者から聞いた・・・『復員して長崎に戻って来て見ると、アメリカ兵がジープに髑髏をぶら下げて走っている、チョコレートを投げると子供たちがワッと拾いに駆け寄る、ああ負けたんだ!と泣きたかった』などと。また東京大空襲で黒焦げになって転がっている母親と赤子、一面の焼野原、私自身は家族に連れられて台北から引き揚げた。国はゼロになり人は溢れた。
しかしたちまち復興して現在に到っている。1960年代になるともう先進国だと思い始めていた。様々な問題ありとされながら一昨年20数年ぶりに見た東京は『失われた20年とは本当の話か?』と驚く姿だった。先に述べた留学生を送った国々の人々と日本人の能力にさしたる違いはないと思うが何故こんなに違うのか?との疑問が拭えない。
そして思い到るのは『もしかしたら本当に日本を動かしているのは人ではなく別の存在ではないか?』『必然は偶然の姿をして登場するのではないか?』『個人の場合と同じく国家もまたその初めから終焉まで決まっているのではないか?』と言うことである。さらに『世界もまたそうではないのか?』『今不都合に見える事象も全体スケジュールからすれば必然なのではないか?』と考えるわけである。
聖書を『日本人を主たる読者に書かれた人類史と言う演劇のシナリオ』と考え、そこに記述されている事を仮説として日本を、世界を、そこに起こりつつある事柄を解釈するのはそういう理由にもよる。無論、既に開かれ、且つ閉じられたシナリオと実際に起こった歴史上の事柄が相違していれば論外であるが今まで見た限りではシナリオ通りに歴史は展開した。
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