夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

なーるほど、そういうわけだったのか!

2019年12月16日 12時49分54秒 | 日記
今日、ある記事を読んでいて【ソーユーワケだったのか!】と感じたことがあった。

安倍総理がイスラエルを訪問した時、食事のデザートが靴に盛ったアイスクリームだった由、『イスラエルは奇妙な事をしなさる?!』と思った。

実はこれは【日本の輩めが表面満面の笑みで、裏でイランにフッ化水素を提供しているな、許さんぞ!】との底意の暗喩だったと言うのだ。

それまで日本は気着いていなかったが、実は韓国が横流ししていたことが後ほど発覚、そこで経済産業省がこの7月の処置に踏み切った、且つそれを【同盟の安泰の為に引っ込めろとアメリカが言わなかった】理由のようだ。

韓国、ドーナルダローネ、イスラエルはコワイ相手だよ。日本人みたいに手加減しないよ。

ギターは何台要るか?

2019年12月16日 12時22分48秒 | 日記
クラシックギターの事だが・・・
一台は弦長660が欲しい。もう一台、弦長630があるといい。
その他は650でいいが、
6コースをD(Re)にした一台、
普通のギター調弦一台、
3コースをF#に調弦した一台
が欲しい。
日本人作曲家の曲をスペイン製ギターで弾くのは何となく違和感がある、その逆も言える。
ドイツ製のギターでスペインの曲は何となく雰囲気が合わない、スペインの音楽は音の緻密さとは違ったところで立ち上がる何かがある。
イサーク・アルベニスの曲は弦長660のスペイン製ギターでないと雰囲気が出ないように思う。
日本の個人製作家のギターには関心がない。理由は上手く言えないが、【執念】がこびりついているようでイヤだ。つまりさりげなく作られていない。
アメリカ、オーストラリア、カナダのギターにも関心がない。【音楽の歴史】を背負っていない。
中国製には忌避感がある。理由は中国文物と欧州文化は全く異質で、ニャーニャーミューミューと言うネコナデ音楽の伝統はスペインの乾いたクリスピーな音楽と相いれない。
日本人の体格には600mm程度の弦長がいいのだそうだ。理屈はそうだが欧州中世のビウェラだのルネッサンスギターなどを連想して余り感興が湧かない。
低音がやたらドスンドスンと鳴るギターがあるがキモチワルイ。
反対に高音がピャンピャンパピヨーンとなる(もしかしたら鳴らす御仁)ギターは蕁麻疹が出る。

結論:-
スペインの風土の中でスペイン人によって組み上げられた弦長660mmのE調弦、D調弦、F#調弦、650mmのyamaha、630mmの個人製作でない日本製、が欲しい。

エデンの園は何処にあったか?

2019年12月11日 00時23分11秒 | 日記
そこからハビラ、ピソン、ユフラテ、ヒデケルと言う四つの川が流れ出ていたと創世記には書いてある。ユフラテの名がある故にユーフラテス河がある今のパレスチナ辺りであっただろうと考える事も出来ようが私はそうは思って居ない。

エデンとは地球全域であった。創世の神はそこにアダムとエバを置いた。彼等はそこで生活出来るよう備えられていた。

然るに驕りの故にサーターン(謗る者)となってしまった元ケルビムに脅されてエバは【自分は物質】と言う想念に憑りつかれ、アダムは神よりも女を取って彼女に随った。それが故にアダムもエバも例えて言うなら538, 539と始点も終点もない数値表現的存在であったのが0と1の羅列と言う始点と終点のある存在になってしまった。その姿が失楽園である。

多分・・・諸国民の時が終了した時、人は0と1の羅列でしか表現できなかった自己を一個の数値で表現出来、且つそれが形を持つ世界が立ち上がるのだろう、つまり復楽園。

エデンは今もこの人間世界に併行して存在していてそこに735とか1008などの個性を持った霊が居るだろう。但し、実数で実態が表現される世界と複素平面のように虚数を使って本質を表現する空間とが何らかの変換式を介さなければ相互に連携出来ないように通信不可能ではあろう。

しかしやがて霊界と現実界の境界が無くなる、その境界が曖昧になりつつあると言うブログもある。 すると【見えなかった存在】735や1008が形をとるようになる。これが聖書でいう処の復活だろう。・・・ハデスも海も人を吐き出す・・・聖書に謂う現実界への復活とは霊界と現象界の境界が無くなって霊界に居る人が0と1の羅列ではなく一個の数値のような表現がそのまま現象化することを言うのであろう。

イエス・キリストが十字架に掛けられた時、至聖所の幕が裂けたと書いてある。つまり現象界と霊界の仕切りが取り払われる事を予告したのではなかろうか。

霊界とフェイスブック

2019年12月11日 00時00分21秒 | 日記
フェイスブックと言うのがインターネットの世界にある。そこでは【類を以て集まる】が実現している。

多分・・・霊界もそうだろう。地獄とか極楽などというものはない、在るのは【似たような霊】の集団だろう。だから死んであの世とやらに行って見たら、ジジイもババアも喧嘩ばかりしていたオヤジもみんな居た!となるんじゃないか?

では何故人はこの地上現象界に苦労や不安を厭わずに現象化して来るのか?
・・・多分【経験したい】のだ。アメリカに生きていて、そこではラーメンを食わなくても生きて行ける、でも本場のラーメをン食って見たくて日本に来る。【人間をやってみたい、スリル満点だろうな!】でやって来るのだろう。

人間を終わってあの世に戻る・・・【喉元過ぎれば熱さ忘れる】、忘れて『ああ面白かった、また行って見たい』になる。

以前、息子の嫁女がちょっとした手術を受けた。彼女が言った事が印象的だった。『●●さん』と看護師の声が聞こえた、『ああ今から始めるんだな』と思ったら『●●さん終わりましたよ』と言われた、と。

人が死んだら多分それと同じ事が起こる。旧約聖書ダニエル書の最後に言う・・・『行けダニエルよ、あなたは先祖と共に休みに入り、日の終わりに到ってあなたの分を受けるであろう』と天使が言った。死者にも霊界にも時間はない、地上現象界でハルマゲドンが終了してエデンが復活した時死者は『●●さん終わりましたよ』と起こされる。・・・『アレッ?!もう済んだの?』