(1)前兆
3月11日の話を書く前に、3月9日から話を始めたい。
この日、結構大きな地震が岩手・宮城で発生した。
最大震度は宮城県栗原市で震度5だった。仙台や塩釜の震度は4強。
栗原市といえば岩手宮城内陸地震で甚大な被害を受けた地域だ。
「また栗原で地震だって」、「気の毒にねえ」。
そんな事を近所の方々と言い合っていた。
この地震で津波警報(注意報かも)が出された。しかし津波は来なかった。今にして思えば、これで津波に対する警戒が少し緩んだかもしれない。この時に1m程度でも津波が観測されていれば、11日にはもっと津波に対する警戒心が高まっていたかもしれない。
9日の夜は余震(そう発表されていた)が続いた。
宮城県は地震が多い。先の岩手宮城内陸地震をはじめ、30年ほど前には宮城沖地震もあった。震度4程度の地震は毎年、数回も起きている。だが9日の地震は何か違う違和感を感じた。今にして言うのは「あとだしジャンケン」みたいに思われるかもしれない。
しかし本当におかしかった。SNSに「余震大杉」と愚痴を書いた。
結果的に、あれは余震ではなかった。9日の震度5の地震こそが今回の東日本大震災のプロローグであり、そこから11日に向けて大地は加速しはじめていた。そんな気がする。地震慣れしている宮城県民にして、強く感じた違和感の正体が、その2日後に明かされる。
(2)本震
「地鳴り」という物を聞いたのは初めてだった。これまでも震度5までの地震は体験している。
それは、突然の上下動から始まる。そして激しい横揺れと変わる。学校の理科で習ったP波・S波そのままの動きだった。
しかし11日の本震は、これまでとは全く異なる始まり方をした。
床下から轟音が鳴った。まるで地中に巨大スピーカーが埋められたかのように。
地鳴りから揺れ始めまでは少しの時間があった。数秒から10秒程度か。少なくとも「この音は一体何だろう?」と疑問に思って、あれこれ考える時間はあった。そして激しい揺れが襲ってきた。
のちの発表で当地の震度は6強だった。これまで5までは経験していたが、それとは全く違った。
馬型の背に乗って振り落とされないようにする「ロデオマシーン」なるゲームがあったが、まるでそんな感じだった。もちろん立っていることは不可能で、すぐさま床にしゃがみこんだ。家具という家具が転倒した。あとで分かったが、大人2人でも持ち上げられない100キロ近い中身が詰まった箪笥の下に、座卓が敷かれていた。つまり箪笥がジャンプした瞬間に座卓がその下に潜り込んだようだ。
揺れている時間の長さも異常だった。通常の地震では、縦揺れ→横揺れが襲って収まる。つまり縦揺れから横揺れに移行すれば「そろそろ収まる」となるが、この地震は横揺れに移行しても一向に収まらなかった。異常に長かった。発表では3分間は揺れていたそうだ。たかが3分とも思えるが、カップヌードルが食べられるようになる時間、ウルトラマンが怪獣を倒せるむ時間と考えれば、何をするにも十分な時間かもしれない。
ともかく何が起きたかまるでわからないまま、ようやく揺れが収まった。
地震で慌てて外へ出るのは危険といわれる。しかしニュージーランド地震で多数の日本人留学生が犠牲となった倒壊したビルの記憶が強く残っていた。自宅建物がどれだけ損壊したかわからないからには、一刻も早く表へ出たかった。
たまらず外へ出た。
今回の大震災は結果的に地震被害よりは津波被害が圧倒的だった。死者・行方不明者の大半は津波被害だ。
中には高層マンションの中にいれば安全だったのに、外へ逃げ出したために津波にのまれた人間もいたように思える。そして建物から離れた心理には、ニュージーランドで倒壊した建物の映像が強く作用していたように思える。
これも今回の被害を拡大した不幸なめぐり合わせの一要因だったように思える。
3月11日の話を書く前に、3月9日から話を始めたい。
この日、結構大きな地震が岩手・宮城で発生した。
最大震度は宮城県栗原市で震度5だった。仙台や塩釜の震度は4強。
栗原市といえば岩手宮城内陸地震で甚大な被害を受けた地域だ。
「また栗原で地震だって」、「気の毒にねえ」。
そんな事を近所の方々と言い合っていた。
この地震で津波警報(注意報かも)が出された。しかし津波は来なかった。今にして思えば、これで津波に対する警戒が少し緩んだかもしれない。この時に1m程度でも津波が観測されていれば、11日にはもっと津波に対する警戒心が高まっていたかもしれない。
9日の夜は余震(そう発表されていた)が続いた。
宮城県は地震が多い。先の岩手宮城内陸地震をはじめ、30年ほど前には宮城沖地震もあった。震度4程度の地震は毎年、数回も起きている。だが9日の地震は何か違う違和感を感じた。今にして言うのは「あとだしジャンケン」みたいに思われるかもしれない。
しかし本当におかしかった。SNSに「余震大杉」と愚痴を書いた。
結果的に、あれは余震ではなかった。9日の震度5の地震こそが今回の東日本大震災のプロローグであり、そこから11日に向けて大地は加速しはじめていた。そんな気がする。地震慣れしている宮城県民にして、強く感じた違和感の正体が、その2日後に明かされる。
(2)本震
「地鳴り」という物を聞いたのは初めてだった。これまでも震度5までの地震は体験している。
それは、突然の上下動から始まる。そして激しい横揺れと変わる。学校の理科で習ったP波・S波そのままの動きだった。
しかし11日の本震は、これまでとは全く異なる始まり方をした。
床下から轟音が鳴った。まるで地中に巨大スピーカーが埋められたかのように。
地鳴りから揺れ始めまでは少しの時間があった。数秒から10秒程度か。少なくとも「この音は一体何だろう?」と疑問に思って、あれこれ考える時間はあった。そして激しい揺れが襲ってきた。
のちの発表で当地の震度は6強だった。これまで5までは経験していたが、それとは全く違った。
馬型の背に乗って振り落とされないようにする「ロデオマシーン」なるゲームがあったが、まるでそんな感じだった。もちろん立っていることは不可能で、すぐさま床にしゃがみこんだ。家具という家具が転倒した。あとで分かったが、大人2人でも持ち上げられない100キロ近い中身が詰まった箪笥の下に、座卓が敷かれていた。つまり箪笥がジャンプした瞬間に座卓がその下に潜り込んだようだ。
揺れている時間の長さも異常だった。通常の地震では、縦揺れ→横揺れが襲って収まる。つまり縦揺れから横揺れに移行すれば「そろそろ収まる」となるが、この地震は横揺れに移行しても一向に収まらなかった。異常に長かった。発表では3分間は揺れていたそうだ。たかが3分とも思えるが、カップヌードルが食べられるようになる時間、ウルトラマンが怪獣を倒せるむ時間と考えれば、何をするにも十分な時間かもしれない。
ともかく何が起きたかまるでわからないまま、ようやく揺れが収まった。
地震で慌てて外へ出るのは危険といわれる。しかしニュージーランド地震で多数の日本人留学生が犠牲となった倒壊したビルの記憶が強く残っていた。自宅建物がどれだけ損壊したかわからないからには、一刻も早く表へ出たかった。
たまらず外へ出た。
今回の大震災は結果的に地震被害よりは津波被害が圧倒的だった。死者・行方不明者の大半は津波被害だ。
中には高層マンションの中にいれば安全だったのに、外へ逃げ出したために津波にのまれた人間もいたように思える。そして建物から離れた心理には、ニュージーランドで倒壊した建物の映像が強く作用していたように思える。
これも今回の被害を拡大した不幸なめぐり合わせの一要因だったように思える。
被害だけではなく
目に見えない多くのもをも残してくれた気がします
亡くなられた方々にはご冥福をお祈りするとともに
残されたものは この震災を気に
防災への意識を改めなければ・・・