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離婚の筋道

2013年01月07日 02時50分33秒 | Weblog

離婚。

 

それは、人生を大きく変えるとてつもない作業です。

 

離婚を決意するとき、人はまずその決意が始まりではないでしょうか。

 

決意のあと、なにをしなくてはならないか、何をすべきか、何を協議するべきか。

 

そして往々にして、離婚自体に意識がフォーカスして、離婚後のことにまで頭が回らない。

 

そんな状態が普通なのだと思います(中には離婚原因となった不倫相手との再婚が

すぐに迫っているという方もいらっしゃいますが。。。)。

 

今回は、離婚という法的手続きの中で実現してゆく、なりたい自分というものを少し考えてみます。

 

 

1.一方的に押し付けられた家事などから解放される。

工場に嫁いだ方がいらっしゃいます。その方にとって、離婚とは、イコール工場で働く

夫(とその親族のかたがた)に差し入れする膨大な量の麦茶の用意からの解放を意味していました。

夏の暑いとき、毎日毎日途方もない量の麦茶を用意することを一方的に命じられ、嫁いだ日から

毎日毎日汗だくになって麦茶を用意することを強要されてきたのです。

この義務がとてつもなく嫌だった。

 

家事労働もそうです。

 

偏食の夫の献立メニューからの解放。

 

これは聞くだに大変そうです。とうか大変です。多言は待たないでしょう。

 

そもそも論かもしれませんが、家庭を維持することは家族の義務のひとつではあります。

その家族の維持のために、大変な思いをすることもあります。

なので、合理的な協議によって出された結論であれば、甘受してもかまわない。

問題なのは、このような合理的な協議という手続き保障がないまま一方的に家事分担を強いられる点。

この点に多くの方は不満を感じることが多いです。

そして、このような一方的な非人間的扱いによって、離婚の決意を選択する。

 

このような決意で離婚を実行に移すこと自体、反対ではありません。

 

2.性的苦痛から解放される。

性の不一致は離婚原因のトップ5に入ります。

私自身はせきららな性生活の不一致を語られた経験はありませんが(逆に不倫や浮気による

性交渉についてはよく相談を受けます)、性生活の不一致は暴力そのものに感じられることが

多いです。

一言でいえば思いやり、ということにもなるのでしょうが、性衝動は本能ですので、話は厄介

ですよね。合理的理性によって制御できないわけですから、協議によって理性で納得しても、本能を

制御するストレスは当事者に残ります。

そのストレスが、性生活以外のところで噴出するとき問題は深刻になります。

 

従いますと、性的苦痛から解放されるというのは、強制的に性交渉を強いられること自体からの

解放だけでなく、その抑制によって生じる暴力や不和その他の間接的な暴力からの解放にも

なります。

 

協議の場では、単なる暴力的支配による苦痛だけを見るのではなく、間接的に噴出す性的欲求の

不一致といった観点といった複合的な視点で検討する必要があります。

 

3.自己決定権を回復できる。

最近この自己決定権の回復を願う方が増えているなというのが私の率直な印象です。

自己決定権といっても小難しい話ではないです(もちろん根源を問い続ければ小難しい話にも

なりましょうが)。

 

バイトしたい。

好きな服を着たい。

友達とゆっくりおしゃべりしたい。

 

そういった生活の中のありふれた好みを支配されることが多いのです。

 

縛られる生活、とでも申しましょうか。

 

これが、ラブラブな新婚生活ならまだ許容範囲なのかもしれません。

しかし、子育てにまでこの支配が及ぶと、話は別になりますよね。

 

子供にはのびのびすくすく育って欲しい。

 

いや、現代社会は厳しい競争社会なのだから、学歴とかスキルとかそういった面で

競争で排除される落伍者にはなって欲しくない。だからお稽古事や塾に通わせるべきだ。

 

中高一貫校や付属学校に通わせて受験を回避させたい。

いや、受験こそ成長のよい機会なのだから積極的に競争社会でもまれるべきだ。

 

こういった議論すらできずに一方配偶者の言いなり(というか言葉の暴力)になり、

対等な立場で幸せな家庭をはぐくむといった幸福からは程遠い現実になることもあります。

 

ここでも力関係で弱い立場の一方に人として当然認められるべき手続き保障が一切ない

といった現実から解放されたい。

 

この点は大いに納得です。

 

しかし。

 

上記の解放は、離婚さえすれば当然に手に入れられるものでしょうか。

 

もちろん、しっかりとした方にとっては、結婚相手に失敗しただけ、ということもあります。

 

そういった方にとっては、離婚は上記の解放を促進・実現する大きなきっかけになるでしょう。

そのこと自体否定するつもりはありません。

 

しかし、そうではないケースもあります。

 

そういった場合、離婚によって幸福になるとは限らないことになります。

 

私は、このようなケースで、本人の幸福追求を実現するよりよい方策を考えてゆきたいのです。

 

実際、暴力によって圧制された人生から自分の人生を取り戻したいという一心で離婚したものの、

再婚相手(とか同棲相手)がされにグレードアップ(ダウン?)の進化を遂げた暴力人間だった

というのもよく聞く話です。

 

この場合、暴力によって支配される自分でなければ不安でしかたないといった深層心理が働いて

いるようです。

 

このような方は、幼いころ、暴力を振るう父親に支配され、その支配の中で家庭に愛情を

見出してきた、といった経験があることもあります。

 

そうだとすれば、暴力によって支配された自分でなければ私は愛されない、という自分の

気持ちから卒業する必要があるのではないでしょうか。

 

もちろん卒業といっても口でいうのは簡単ですが、本当に本当に卒業するのは困難です。

なにしろ幼いころの自分の心に刻まれた愛情の原点なのですから。このトラウマからの

脱皮は、一緒に苦しんだ経験がない者でしかわからない困難があります(そして付言するならば、

この困難は多重構造になっています。そもそも暴力から解放された自分という新たな自己の

発見が幸福につながるのかという疑問が付きまとうからです。そしてこの幸福かどうかを決める

のはほかでもない、暴力に愛を感じてきた本人によって評価されるのですから。その上で、

成人した後の成熟した心理を理性で操作して新しい自己を探求・発見するのです。困難

でしょう?)。

 

私は、離婚したいのですけれども、という相談を受けた上で、このようなところにまでさかのぼって

自己の解放と幸福実現をともに考えてゆきたいと考えています。

 

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東京都の行政書士事務所

うすい法務事務所

http://gyouseishoshi.main.jp/

09065607099

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